朝から入場待ちしていた大女優
──都こんぶを買いはしませんでしたか。と、女は聞きました。──
こんなセリフで始まる『唐版・風の又三郎』を不忍池に作られた特設舞台で見たのは大学2年生の時でした。
当時の僕は演劇も芝居も知らず、舞台がどういうものか知らない学生でした。そんな僕が日大芸術学部に在籍していた友人から誘われて初めて見に行ったのがこの芝居。 アングラ演劇と言われていたことも知らずに出掛けましたが、とにかくアグレッシブというか暴力的な舞台で、どう解釈すればいいのか戸惑っている間に終わってしまったと記憶しています。
当時の状況劇場は紅のテントを張る移動舞台。席もなく、シートを敷いた地面に座って観るものでした。雨が降れば、シートに溜まった雨が観客の頭の上から降り注ぐというオマケまでついていました。もちろん、予約などまったく受け付けていないので、早朝からテントの横に並んで開場を待たなければいけませんでした。
そんな列の中にいたのが市原悦子さんでした。
「あんな有名な女優さんでも並んで観るんだ」。
女優は特別な存在だと思っていた僕は戸惑いと驚きが交差する中で見つめてしまいました。何気ない振る舞いのまま、入場までずっと並んでいたのを発見した時には自分の価値観まで変わってしまったようでした。
真の女優とは「たとえアングラ演劇と言われているものでも敬意をもって接し、真正面から演劇を見据え、新たな波を吸収しようとする人」だと教えられたような気持ちになったのです。
その後『日本昔ばなし』で彼女の声を聞いた時にも真の女優にしかできない「声だけで演技する」高い技量に感服、内容以上に声に魅入られてしまったのを記憶しています。
そんな市原悦子さんが亡くなられました。82歳。
大女優が記憶の世界に旅立たれてしまいました。謹んでお悔やみ申し上げます。
それにしても今年は年の初めからいったいどうしたんでしょう。先日の兼高かおるさんといいい、今日の市原悦子さんといい、エポックメイキング的な働きを世に残した方が旅立たれるなんて。いくら新旧入れ替わりの年と言われているとしても、これでは寂しすぎます。
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