∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 小正月 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20210108120902j:plain

正月気分に別れを告げる日

 1月15日、小正月がやってきた。14日から16日までの3日間という説など諸説あるが、節目の日と割り切ってもいいだろう。
 女正月、花正月とも言われているが、古くは元服を迎える事の多かった日でもある。それが現代に伝わって「成人の日」になったわけだが、それも今は昔の話。風情も伝統もなにも考えていない移動休日制度のおかげで、単に「1月のある日」になってしまい、鏡開き、左義長どんど焼き)、餅花や繭玉、小豆粥。小正月を彩る行事もほとんどが“一部で伝わる伝統行事”になってしまった。

 個人的にも小正月は幼少期の記憶だけになってしまった。とはいっても、数十年前、祖母がお鏡餅を金槌で割って作ったお汁粉と揚げ餅を繭玉の下で食べていた幼稚園児が、ただのオッサンに成り果ててしまうほど昔の話だが。

 1月を古来の言い方に戻せば正月だということはさておき、のんびり羽を伸ばせる正月気分から抜け出すのに小正月はもってこいの日である。
 いわば小正月の日は、いつもどおりの生活に戻るための節目の日ということもできる。平たく言えば「明日からは気分一新、しっかり働けよ」という日になるわけだ。

 自粛、自粛で動きづらい日々が続いているが、そうは言っても、改めて気持ちを引き締めるいい頃合いなのかもしれない。

[0115 - 3692]

 

≡≡ 認識を新たに ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

「範を垂れる」とは

 *範を垂れる=みずから手本を示す(コトバンク)*

 日本医師会の中川会長が「政治家の皆さんには範を垂れていただきたい」と語ってから約1週間経つが、どうもこの言葉、政治家はもとより財界人の皆さんにも伝わっていなかったようだ。

 かの週刊文春がスクープした石破元自民党幹事長の福岡「ふく会席」問題の話である。
 氏は掲載を受けて「お断りするのは礼を失すると思い出席した。国民の皆さまへの配慮が足りなかった。深くおわび申し上げたい」と語っている。

 総理が5人規模の宴席に出席し、問題ありと指摘されて何日も経っていないこの時期ではあるが、私は氏の姿勢だけに問題があるとは思っていない。
 誰とは言わないが、根本的に席を設けようとした事自体が時勢にそぐわないことを認識していないことに問題があるのだ。
 私に言わせれば、誘われるがままに出席した石破氏は「ハメられた被害者」である。
 ちなみに現職の長野市長がある企業が200人規模で開催した新年会に出席して「感染対策をしているところは積極的に出るようにしたいと考えている。問題はない」とのコメントを残したことも報道されている。


 これらの問題が明るみに出たのを機に「範を垂れる」という言葉を政治家や財界人などの権力層に望んではいけないことと認識を新たにした。

 仕事終わりと言えども腰を据えて飲みに行ってはいけない。
 仕事をするならできるだけ家でしろ。
 感染予防が徹底しているかどうかは自分で判断しろ。
 義理を欠いてもいいから人との接触は極力避けろ。

 こんな難題に取り組むのは庶民だけに課されたものということがやっと分かった。緊急事態宣言下の正しい生活スタイルをリーダーシップを取っている(はずの)誰かに見習おうなんて期待はしてはいけなかったのだ。

 まさに自律すべきは庶民のみ、である。

[0114 - 3691]

≡≡ 突然の福岡 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

大所高所に立った先手必勝策

 13日夜。正式に京阪神と中京エリアと栃木県にコロナ対応の緊急事態宣言が発出された。どこも感染者は増加し続け、医療体制は崩壊寸前かすでに崩壊しているかという切羽詰まったエリアばかりである。
 ここまでは予想通りだったが、今回の発出には福岡県が含まれていた。県知事から要請していないにも関わらずである。

 ニュースを見ていると、疑問や混乱と同時に怒りにも似た反発も含まれていた。首都圏と同様に、特に飲食店からの反発が強いようだが、おそらく政府としては“読み込み済み”だったのではないかと想像している。

 それはそれとして。

 今回の発出に関しては、医療崩壊を起こしそうだと危惧されている熊本県や宮崎県ではなく福岡県というところに大きな意味がありそうだ。
 つまり、突出した福岡さえ抑えれば、熊本だけではなく九州全土に緊急事態宣言を発出したのと同様の効果があると考えたのではないかと想像できるのだ。

 予防的とも取れる今回の発出は、ひょっとすると、民意に押され続けてきた国の対応に発想の転換が起こっているのが原因ではないかと私は考えている。
 これ以上ないほど甘く言えば「後手後手から、大所高所に立って先手を打つ」作戦である。

 これだけの政策を突然発出するのだから反発はあって当然。それ以上の効果と補償が期待できる信頼感があればいいのだ。

 とはいっても、先手が取れるようになっても課題はいくつも残っている。たとえば、これまでに失ってしまった信頼感を取り戻すための策を次々と打ち出すことや、発表する時のプレゼン力、国民に寄り添っていると思わせてくれるコミュニケーション能力などである。

 “つまずきっぱなし”のコロナ対応に道を開くためのハードルは思った以上に高い。今回の先手必勝策がその第一歩になることを願っている。

[0113 - 3690]

≡≡ 徳川家康遺訓 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

家康は
「及ばざるは過ぎたるに優れリ」との
言葉を残したが

 『論語』のなかで「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と記されている孔子箴言を、徳川家康は「及ばざるは過ぎたるに優れリ」と言い換えた。
 どちらも意味は同じだが、あえて意訳すれば“過剰な供給や支援は、ものごとが不足するよりも悪い措置や選択であるということになる。

 コロナ禍が急激に悪化している今、閣僚や官僚はこの箴言座右の銘にしているのではないだろうかと思うことが多くなった。
 政策を出す場合はどんなときでも勿体をつけてとか、前例を重視しなければいけないというような硬直した考えだけで政策を決定してわけではないと信じたいのだが、そんな信頼感を揺らがせるような決定ばかりが目についてしまっているのは私だけではないだろう。

 ようやく13日から京阪神や中京エリアにも緊急事態宣言の発出が決まった。

 資金援助などを含むものになりそうだが、これだって民意に押されたとしか思えないものを形にしただけ。まさに「及ばざるは過ぎたるに優れリ」の精神を反映させているのかどうか、内容はあくまでも最低限である。

 コロナ禍のような危急存亡に対処するときほど、広範な調査網と知見を駆使して先手先手の施策を練り上げておくべきもの。そんな“準備”があればこそ「いざというときには個々人の行動は厳しく締め付けるが、誰もが経済的な困窮に陥らないように支援する」という姿勢が取れるものだ。
 それなのに「言ってきたなら仕方あるまい」的に伝家の宝刀を振り下ろすとしか思えないようなスタンスで発出するとは……。支持率が下がり続けるのもうなずける。

 国にはそろそろ気付いて欲しいものである、今求められているものは何なのかを。

[0112 - 3689]

≡≡ 東京の雪 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

ペンギン歩きのススメ

 ニュースでは、今から数時間後の12日の未明3時頃から東京都心部でも雪が降りそうだとしきりに語っている。

 沿岸部から山間部へ横に長い東京では都心部多摩地域では天候がまったく違う。気温や雪に関して体感を下にした私見だが、都心部と比較すると、立川市近辺はマイナス3℃、多摩川上流を超えた八王子はマイナス5℃、青梅などの奥多摩はマイナス7℃ほど気温が違うと信じている。当然、降雪量も違ってくるわけだ。

 そんな都市のためか、雪に対するインフラも人の心構えも都心部とそれ以外では微妙に違っている。言葉を変えると、都心部では雪への意識が低いのだ。

 そんな降雪意識の低い都心部でも雪の季節がはじまった。これから2月下旬までの1カ月半ほどは、積雪5センチで車が立ち往生とか、骨折者続出というニュースやウワサが飛び交うはずだ。

 もし明日の朝、我が家付近で雪が積もっていたらどうするか。コロナ禍とはいっても自宅に籠もって出掛けなければいいというものでもない。出掛ける時は出掛けるのである。
 接地面が大きいゴム底の靴を履いてスリップに備え、フード付きのコートを着て両手を開放し、分厚い手袋で手を保護する。
 私はそんな基本形に加えて、滑りそうな道路を歩く時は“ペンギン歩き”に徹するようにしている。つまり、歩幅を短くして、すり足に近いヨチヨチ歩きに心掛けるようにしている。つまり、雪というよりも薄氷に備えようというわけだ。

 さあ来い、都心部の雪。コロナ禍に振り回されている医療関係者に余計な仕事をお願いすることだけは避けるぞ。

[0111 - 3688]

≡≡ コロナ禍を忘れた日曜日 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

一日を自宅で過ごす

 三連休の日曜日。今日は自宅から一歩も出ずに一日を終えた。
 誰にも会わず、誰とも話さず、居付き猫たちとゴロゴロ過ごす休日も何度か経験するとそれなりにリズムが出てくるものだと我ながら感心している。本を読もうとしたときに子猫たちが許してくれないところさえ我慢すればこれほど気楽な過ごし方もないだろう。

 なにより、ノーマスクで過ごせたことがいちばん。口元が直接空気に触れるという贅沢な解放感に浸ってしまった。この点に関しては、おひとりさまだからこそ許される特権だと非難されても甘んじて受けたいと思っている。

 コロナの恐怖にハラハラピリピリする日々はストレスフルなもの。このストレスから解放されるだけでも安らぐというものだ。ときにはこんな過ごし方もいいのかもしれない。

[0110 - 3687]

≡≡ ワクチンの効果 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

正しくは
過大な期待を寄せるな。
基本はマスクから、ではないか

 世界中でコロナ用のワクチン接種が始まってほぼ一カ月。ロシアや中国のように承認以前から使っている国を除いても、ヨーロッパやアメリカなど感染者が非常に多い国から順に進んでいる。

 しかし、接種直後の人をインタビューしたニュースを見ると誰もが「副反応は心配だけど、罹らなくなるのならと思って打ちました」というようなコメントをしている。

 私はこの受け止め方に大きな違和感を抱いている。

 少数の感染症研究者が発言しているように、インフルエンザのワクチンと同様に接種しても症状が緩和されるだけで、罹患しなくなるわけではないというのが正解ではないだろうか。
 つまり「ワクチンを接種すれば罹らない? いや、そうじゃないでしょ。重症化しないだけと聞いてますが」と反論したくなってしまうのだ。

 正確に言えば、マスクや消毒で予防。罹ってもワクチンで重症化を防ぐ。特効薬が完成すればそれを使って治療するという役割分担があり、ワクチンを接種すればコロナに罹らないということではないはずだ。

 日本でも、ワクチンさえあればコロナ禍は沈静化するという風潮があるようだが、「ワクチンに過大な期待を寄せるな。基本はマスクから」という大原則を本格的に接種が始まる前に専門家の知見をもとに確認しておきたいところである。

[0109 - 3686]

≡≡ 一日目 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

昨日と同じ風景
昨日と違う風景

 昨夜、コロナ禍に対する緊急事態宣言が出されたが、昨日の今日ということもあるのか、率直なところ、街に目立った変化は起こってないと感じている。飲食店などを除けば、多くの企業は今日は準備、本格的に取り組むのは三連休を境にしてと計画を練っているのだろう。

 人が集まり、会話を楽しむ場所の筆頭格である飲食店の営業時間短縮ばかりが目立っている宣言だが、本来講じるべき「人との接触を避ける」という、いわば根っこの部分を抑え込むための策としては脆弱ではないだろうか。
 飲食店だけに過重な要求が発せられていないか、ほかに抑制効果のある策は見つからなかったのだろうか。これでは、飲食店の経営者から不満や反発が起こるのも当然だ。

 緩めのロックダウンで感染を防ぐことが出来なかったイギリスでは、最初のロックダウン同様の厳しい内容で三度目のロックダウンが発せられている。内容を大雑把にまとめれば「出歩くな」「マスクをしろ」ということになるものだ。

 日本でもこのくらいの厳しさが必要だったのではないだろうか。「みんなで我慢と辛抱を」。私は緩すぎる政策に頼らない個々人の覚悟が今こそ必要だと考えている。

[0108 - 3685]

≡≡ 七草の節句 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

皮肉なことに
無病息災を願う日に
緊急事態宣言発出

 せり・なずな・ ごぎょう・はこべら・ ほとけのざ・すずな・すずしろ、春の七草

 新年を迎えてはじめての節句人日の節句』に無病息災を願って食されてきたのが七草粥である。前漢時代の中国で行われていた『七種菜羹(ななしゅさいのかん)』が日本に伝わり、今も伝わる形で定着したと伝えられている。
 この七草粥、いつの間にか正月の暴飲暴食で荒れた胃を整えるために食べるものと意味が変わってしまった感も強いが、真冬に育つ生命力の強い新鮮な野菜を摂るのだから、理にかなっていると言えば理にかなっている。

 そんな無病息災・健康促進の日に出されたのがコロナ禍に対応した緊急事態宣言だった。

 一都三県に限っての発出だったが、首都圏では今日から最低でも1カ月間は飲食店や大規模小売店舗などの営業は夜8時まで。イベントやエンターテイメント関連は入場制限強化。テレワークを7割まで増やすこと。外出は極力控えること。などなど、要請という名の制限が課せられることになった。
 前回の発出と比べると、資金援助の充実や協力しない店名の公表という強制力が加味されたが、どれここれも、ある程度の効果しか望めないものばかりである。
 感染者の急増をみれば当然と言えば当然。むしろ遅すぎるくらいだが、ある程度の破綻もやむ無しと多くの人が感じる状況になるまで国が様子見をしていたと考えれば、適切な時期を見計らった発出といえるのかもしれない。

 風習と国策というまったくレベルの違う話のはずなのに「無病息災の節句」と「コロナ禍の沈静化を計った発出の日」が重なるとは、なんとも皮肉な結果である。
 科学的ではないことを承知で言えば、今回の緊急事態宣言が無病息災につながってくれることを願うばかりである。

[0107 - 3684]

≡≡ 緊急事態宣言前夜 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

効果は限定的というが……

 予測や期待ではなく、事実として書いても差し支えないだろう。明日、1月7日に二度目の緊急事態宣言が発出される。
 ただ、今回の宣言では効果は限定的で劇的な効果は望めないという専門家の意見を聞くと、これが日本の政治的な限界なのかと冷めた気分になってしまう。

 いまさらだが、感染者が急増しても、マスクと手洗い、消毒、三密を避けるという予防策だけでよくぞ耐えてきたものだ。

 日本の緊急事態宣言は具体的な結果よりも心理的な効果のほうが強いもの。どれだけ警告してもコロナ禍を甘く捉え続ける人たちが減れば、それだけでもヨシとすべきなのかもしれない。

 効果が限定的でも結構。束の間であっても落ち着ける時が戻ってきてほしい。今はただそう願うばかりである。

[0106 - 3682]

≡≡ 小寒の候 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

寒中お見舞い申し上げます

 二十四節気小寒がやってきた。小寒大寒の時期を合わせたこれからの約一カ月間は一年でもっとも寒い時期。ここを乗り切ればのどかな春がやってくる。

 暦便覧では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」とされるこの時期。現代風に言えば「冬至の頃と比べると陽の光は増してきたが、いまだ陰の気配が支配しているためにいっそう寒くなる」となるのかもしれない。

 実は、この暦便覧に書かれた“一陽”という単語に深い意味があると言われている。

 つまり「ここを乗り越えればのどかな春がやってくる」という表現は、転じて「寒ければ寒いほど春が来たときに草木は育ち、苦しい事象のあとに良き事が巡ってくる」となり、“一陽来復”という四字熟語につながっていくわけだ。

 今の寒気を耐えれば明るい春がやってくる。極寒の時期を支配する陰の気に逆らう一筋の陽光が、まだ形になっていない好機を運んでくると考えれば、寒中の意味も、世の中の状態も、何もかもが変わってきそうだ。

[0105 - 3681]

≡≡ さあ、正月は終わった ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

緊急事態宣言発出前夜

 1月4日。正月三が日が終わり、仕事初めの企業も出てきた今日、飛び込んできたのは政府による緊急事態宣言の検討、それも今週末を目標にするというニュースだった。
 1月2日に一都三県の首長が政府に発出を要望したおかげか、政府もようやく重い腰を上げたようである。

 私は、予告とはいえ、誰もが未経験だった昨年4月の発出と今回のそれには大きな違いがあるはず。たった数日で行政の準備は整うのだろうかという疑問を抱いている。
 同時に、この状態に陥るまで国はいったい何をしてきたのか。経済優先という方針で良かったのか。厳しい政治的な駆け引きを避けるために特出するような策を打たなかったのではないか。裾野まで含めて、利益追求が不可能になる業種に対するケアは今度こそ万全なものになるのか。生計費は確保できるのだろうか。疑問点を挙げていけば数限りなくありそうだ。

 ともあれ、このニュースを聞いて、三が日の静かすぎるけれどのんびりとした気分が一気に吹っ飛んだと感じている方も多いのではないだろうか。
 ここまで感染者が増えてしまうとやむを得ない選択だということは理解出来るが、にわかには承服し難いというのが国民の誰もが感じている本音ではないだろうか。

 正月は終わった。

 ここが正念場、拡大しすぎたコロナ禍が落ち着きを取り戻した時に二度目の正月を楽しめばいいじゃないか。そう考えるしか救いの道はないのかもしれない。

[0104 - 3681]

≡≡ 正月3日 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

コロナ禍のなかの特別な新年

 今年は静かなお正月を過ごしてほしいという要請があってから約1週間。今日も極力動かずに一日を過ごした。正月休憩、あるいは正月自粛といったほうがよさそうである。

 一都三県の首長が国に対して緊急事態宣言の発出を要請したり、前倒しで飲食店に対してのより厳しい営業自粛の予告が発表されたりと“多くの人が納得する数字がないと動かない”政治の世界もようやく動きが活発になってきたようだ。
 とはいってもコロナに休みはない。この正月期間に国民がどれだけ静かに暮らしたかを想像させる結果が出る1月中旬には大激震が走るかどうかもはっきりとするだろうが、そこまでは、例によって例のごとく、自律心に任される状態は続くわけだ。

 いまや、特別な正月が節目の時となるように願うばかりになっている。

 権力中枢から発せられる方針に従わざるを得なくなるよりもセルフディフェンスで沈静化を目指すためには、静か過ぎる特別な正月でも致し方ない。

[0103 - 3680]

≡≡ 1月2日 ≡≡

f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123211j:plain

やけに窮屈な今年の正月

 私は例年10数社寺に初詣に出かけるのを恒例にしてきた。しかし今年は、まだ4社寺しかお詣りに行っていない。コロナ禍の今、不要不急の外出は避けてほしいという“要請”を素直に聞いた結果である。
 ちなみにどちらも人出は極端に少なかった。なかには誰もいなかった所もあった。
 初詣なんだから、なんとか正月中に例年お詣りしている社寺のすべてを巡りたいと思ってはいるが、どうなることか。ひょっとすると立春近くになってようやく巡り終えることになるかもしれない。

 それにしても窮屈な正月になってしまった。

 寝正月という言葉がある。これだって、正月らしい会食や外出という多くの選択肢の中で寝るという行為を選んでいるから寝正月という存在感を発揮するのだ。今年のように、ほかに選択肢がないから寝て暮らそうというのはただの休憩時間でしかない。飼育係があまりにも家にいるのが不思議なのか居付き猫たちだって戸惑っているに違いない。

 崖っぷちの経済状況。妙な緊張感が漂う外出。“今が底”と厳しく自分に言い聞かせて静か過ぎる正月を乗り切るしかないようだ。

[0102 - 3679]

 

≡≡ 2021年1月1日 ≡≡

  f:id:Yutaka_TAWARA:20201213123210j:plain

希望の年となりますように

 新年明けましておめでとうございます。

 収まるどころか拡大するばかりのコロナ禍の中で迎えた2021年は経験したことのない年の初めになりました。

 ここまでのほぼ一年間戸惑いながら生活してきた結果、混乱と不安で萎縮してしまった人がいるかと思えば、開き直ってこの災禍から目を背けようとする人もいらっしゃるようになりました。かと思うと、知恵を絞って新境地を切り開こうと奮闘している人も着々と増えているようです。
 コロナ禍が築き上げてきた生活様式をここまで変えてしまうものなのか予測していた人はごく僅かしかいらっしゃらなかったと思っています。

 今年は新規一変、これまでのほぼ一年間で学んだ経験を生かした新たなステージを作る希望の年にしたいと意気込んでいらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
 悲観するばかりでは始まりません。こんなときこそポジティブ思考で未来を切り開くマインドを大切にしたいもの。合言葉は「災い転じて福と成す」です。

[0101 - 3678]