∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

1995年1月17日5時46分

いつも通りの朝を迎えるはずだったのに。
朝6時過ぎに神戸で一人暮らしをしていた母から電話が掛かってきた。
地震やー。家の中は全部グチャグチャやし、浜のほうは大火事みたいや。どないしょー。」
まだ覚めぬ頭のママ、テレビを点けてみるが、『神戸で地震が発生した』ということしか分からない。母に状況を聞くが、パニック状態で「大変や。どないしょー」という言葉しか出てこない。隣に住む親戚の様子や甲子園に住む親戚のことを聞いてみても、隣の二人は生きているが、甲子園の親戚とは連絡がとれないという言葉が返ってくるばかり。
とにかく落ち着いて、何かあればそちらに行くからと言って電話を切った。
阪神淡路大震災。都市に住むすべての人が突然、文字通りの極限状態に追い込まれ、『生きる』ことの意味を身をもって体験し、考え方を一変させることになる大地震が起こった。
朝の電話で目が覚めたので、それからはテレビで状況を把握しようとしても8時くらいになるまでは、その甚大さが掴めず、もどかしい時間が過ぎていった。ようやく、報道機関の空撮や先行レポートが入ってくるようになってからは、背筋に冷たいものが走るのを感じながらニュースに見入ってしまった。
まだ、コンピュータも携帯電話も標準ツールになっていない時代のこと、速報性のある情報源はテレビとラジオだけだったが、その報道も断片的だし、なにより映像を見ていても信じられないのだ。どうも、とてつもないことが起こったようだとしか理解できなかった。
我に帰り、母に電話をしてみるが、まったく通じない。
このあと30時間ほど連絡が取れなくなり、テレビと新聞の報道を時間が許す限り確認することで事態を把握しようとしたのだが、なにも出来ない自分がもどかしい限りだった。
ようやく母に連絡が取れた時には、報道で未曽有の大災害が神戸とその周辺を襲い、建物の倒壊や町全体を襲う大火事、それにともない多くの人の命が失われているということが分かっていたため、母に神戸に行くと提案するが、来なくていいという。
歩くこともできないほどひどい状態だし、食べるものもないし、家にも泊まれない。まだ燃えている町もあるので危険だというのだ。しかし、話をすることで母の気持ちが少し落ち着いてきたのだろう。声のトーンが変わってきたのが分かる。
そんな話の中で出てきたのが、『空襲のほうがよかった』という言葉だった。第二次世界大戦中の神戸の空襲を経験している母曰く『空襲の時は警報が鳴って準備が出来たけれど、地震は突然やってきて空襲と同じくらいの被害がある』というのだ。東京でテレビの報道を見てはいても、いつもと変わらない生活をしていた僕にとっては理解の範囲を超えた言葉だった。
どうすればいいのだろう。なにができるのだろう。僕も、仕事中はなんとか平静を保っていたが、プライベートに戻ると、東京で普通に暮らしている自分がもどかしくてたまらなくなっていた。
[本日で連続0071日]