∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

ある日、突然

【2011年3月12日】


 大震災から2日目。地震津波がもたらした状況の全体像がまだ明らかになっていない頃。何もかもが大混乱している中、自衛隊、世界中のレスキュー隊、警察、消防、医療チーム、世界中の報道陣、ボランティア団体。あらゆる人々が東北に集結し、状況把握と救急医療、緊急支援に取り組み始めていた。
 そんな時、福島第一原子力発電所で最初の爆発が起こった。
 事実を正確に把握することも出来ず、何が危険なのか、どう対処すればよいのか、そんな簡単なことさえも正確に指示できる人間はいなかった。誰もが「未曽有」や「想定外」と言う言葉で状況の困難さを伝えようとしていたが、結局、誰にも真実は分からなかった。
 しかし、そんな状況の中でも原発周辺に住む人々の避難は始まった。そしてその後、事態は急変を繰り返したが、被害状況の把握と検証が進むにつれ、避難指定される地域は拡大していった。


【何故、こんな事が】


 大地震で信じられないようなダメージを受けた直後の大津波。そしてそのすぐ後に襲ってきた放射能。自然の猛威と人口の恐怖が折り重なった中の避難を余儀なくされた人々にとっては、ただ茫然と状況を受け入れるしかない事態だったに違いない。


 まさに、究極の「ある日、突然」である。


 誰もこんなことになるなんて想像すらしていなかっただろう。そして、それは日本に住むすべての人々も同じ思いを抱いたはずだ。
 これからも長期間に渡った避難が続くのかもしれないし、なかには体調に影響が出てくる人もいるかもしれない。ただでさえ、極限下の避難で身体も精神も最悪な状況の中で逃げただけで済まずに、病理学上は問題がなくとも、精神的にいつまでも放射能の恐怖に怯え続けたり、否定したり、隠したりする人も出るだろう。


【広島・長崎】


 日本は世界で唯一の被爆国である。放射能の恐ろしさを熟知しているはずの国なのに。確かに避難までのスピードは、あの状況の中では、ある程度適切だったのかもしれない。しかし、それ以前に何故事故が起こる可能性を極限まで高めておかなかったのかという議論はこれからも続けていかなければいけないと確信している。
 放射能の恐ろしさを知っている国。
 それは、広島・長崎に原子爆弾が投下され、一次被害だけでなく、救援に駆け付けた人々を襲った二次被害まで含めて、極めて多くの放射能被害を出した国と言い換えてもいい。
 その被害を66年間継続的に治療、研究、分析をして、世界中の研究者や医師に提供してきた日本。 専門家ではないので、あやふやだが、現代の放射能治療は広島・長崎で被災した人々の治療記録が基礎になっているのではないだろうか。


 何と、悲惨。何と、悲しい。何と、酷い。


 広島・長崎で被災した人々も究極の「ある日、突然」、悲劇の真っ只中に突き落とされた。放射能とは何かもまだ解明されていないし、市民レベルでは放射能という言葉さえ一般的ではなかった時代である。治療も手探りの状況の中で行われたはずだ。
 そんな中、広島や長崎の人たちは、身体的な苦痛だけでなく、言われなき風評や差別とも闘いながら街を復興させてきた。


 広島・長崎の人々は極限状態から復興を成し遂げた。福島に復興の日が来ないわけはない。そして、こんな日本に3度目の放射能汚染が起こるはずもない。


 明日、66回目の原爆記念日を迎える。


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