∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

研究者の責任

放射線


 独断的な想像で恐縮だが、3月11日以前、日本に住む多くの人間の放射線に対する知識はごく限られたものだった。医療用のレントゲン撮影、工業用の非破壊検査、広島・長崎の原爆、安全な原発程度のものではなかったろうか。伝記好きならこれに放射線の研究で知られ“放射能”という言葉を作ったとされるキュリー夫人程度のものだろう。
 ごく一部の研究者以外「ベクレル」や「シーベルト」などの言葉は知らなかったはずだ。もちろん「除染」という作業も詳しくは知らなかった。
 おそらく、放射線に関しては、政府関係者や報道関係者のほとんどが理解していなかったと想像できる。その中での未曽有の大事故である。誰もがごく初歩的な知識しか持ち合わせていないところで事態はどんどん悪化していったわけだ。


【研究者の責任】


 どのような学問でも同様な傾向があるが、研究が進むにつれて「研究の独り歩き」が始まる。そして、門外漢を受け付けない体質に変わっていく。
 この傾向に隠蔽や歪曲が正当な手法のひとつになることの多い「政治」が結びつくとどうなるか。
また、メリットを強調することでハイリスクな事業を成り立たせている「経済」が結び付くとどうなるか。答えは、あるひとつの方向だけを指すようになる。
 つまり、独り歩きしている学問を囲い込み、知ることで不安感だけが増すと考えられる研究結果を隠し、安心感を増す結果だけを公表して自らの意図する方向に世論を誘導しようと画策し始める。つまり、メリットを強調し、デメリットを隠すことで市民生活に安心感を植え付けるわけだ。
 こんな状況の中、多くの研究者は自らの研究を推進するために、政治や経済を味方につけようとし始め、政治が仲立ちに立った産学共同体が出現することになる。
 こうして学問に大きな社会的な責任が生まれる。ところが、研究者の中には社会的な責任から逃れて研究に没頭する人間が出てくる。「説明する煩わしさ」や「部外者は結果だけを知ればいい」「責任を取ることなく研究だけを追求したい」というように種々の理由はあるだろうが、結果は同じ。説明責任も開発責任も取らずに、自らの研究推進とそれに伴う学会での権力や発言力の増大を目指すようになってしまう。当然、市民レベルに知らせるべきことがあっても、あえて発表せずに「身の安全」を図るようになる。
 しかも、万一のことが起こった場合、特に人命に関わるような研究者は「我、関せず」を貫き、責任追及から逃れようとし始める。たとえ、研究結果に間違いがあったとしても、事実を歪曲してでも正当化するようになる。あるいは、世論が沈静化するまで無言を通して責任追及をかわしてしまう。
 

 今、日本の原子力研究に起こっている人的な問題はこんなところにあると確信している。
 高度な研究こそ市民のためにあるという基本が欠如して、自らと周囲の利益集団のための権益だけを守ろうとしているわけだ。
 こんな状態で、健全な進歩など望めない。あえて悪く言えば、「悪魔の研究者集団」になり下がった人々が発表することなど誰も信じなくなり、本来の「進歩」から遠のいてしまう。


 どこかでこの「悪のスパイラル」を断ち切らねば。関係者諸君、安全で快適な未来が来ることを信じるなら、潔く、自らの姿勢を正すことに着手してもらいたい。そうすれば、市民は徐々に理解し始めるはずだ。


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