∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

世界文化遺産登録

富岡製糸場と雑誌編集部】

 日本が近代国家として船出をした頃、将来に渡って日本に大きな役割を果たすことになる製糸場が群馬県富岡に誕生しました。近くに桐生のような絹織物の産地があリ、生糸の産地として賑わっていた富岡に製糸場が誕生するのは当然だったといえば当然。しかも近代産業を拡大させていくための官営モデル工場を各地に設立していくことも重要な意味を持っていたはずです。
 ともあれ、富岡の皆さん、そして片倉工業の関係者の皆さん、世界文化遺産登録決定、おめでとうございます。

 ところで、僕は今回の富岡製糸場の遺産登録決定で真っ先に思い出したのは『女工哀史』という言葉でした。とはいっても、思い出したのは、改造社から出版されたルポルタージュでもなければ、『ああ野麦峠』という本や映画でもありません。とある女性ファッション誌です。

 約20年ほど前、僕が働いていた出版社に影響力も収益力も桁外れの女性ファッション誌がありました。ほとんどが女性だったその雑誌の編集者は、時代の趨勢に押され、世の中からも会社からも想像できないくらいの圧力を感じていました。連日、大きなストレスを抱えながら早朝から深夜まで働いているのに、どこまでやっても充分という言葉がかからない状況の中で彼女たちはファッション誌の最先端を走っていました。もちろん、恋愛も自由時間もありません。大袈裟に言えば24時間仕事漬けだったわけです。
 そんな彼女たちがよく口にしていたのが「私たちは現代の女工哀史」とか、単純に「ああ野麦峠」といった言葉です。忙しすぎるのが当たり前の雑誌の編集部でも飛び向けてハードな職場だったのです。
 与えられた使命を理解しながらも、狂気にも感じるほどのあまりにも忙しすぎる日常を自虐的に彼女たち流に表現した言葉と理解していましたが、そんな状況の中でも、いつも楽しげで能動的でそして明晰さを失わなかった彼女たちのことを見ていて、女性パワーの真髄を見たような気にもなっていました。
 そんなハードな職場のこと、多くの人たちがついていけずに辞めていきました。一年の間に半数が入れ替わった年もあったと記憶しています。実際、もし僕があの立場だったら身体が持たないとも感じていたくらいです。

 ところで、富岡製糸場に就職した女工さんたちは技術を習熟した後、全国各地(つまりご実家のある地域)に戻り、そこに新設された製糸工場で指導的な役割を果たしたと言われています。富岡で目を出した近代的な製糸技術が日本全国に広がりました。

 そして今。時代の変遷を経て、あの職場は落ち着きを取り戻し、女工哀史なんて言葉は聞こえなくなったようです。
 ただひとつ残っているのは、日本の女性ファッション誌とはどうあるべきかという姿勢です。
 言い換えれば、死に物狂いで雑誌を作ってきた彼女たち全員が持っていたファッションやトレンドに対しての貪欲な探究心と行動力は衰えていないわけです。もちろん、
 時代の節目を体現した女性たちに敬意を表するとともに、あれほどの狂気の時代が再来しないように願っています。

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