∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

複雑な心情を隠しながら「これまで、ありがとう」と言っておこう

【時の流れの中で】

 金曜日の夜遅く、朝日新聞のデジタル版に『富士「黒白フィルム」販売終了へ 80年超の歴史に幕』という記事がアップされました。
 フィルム+印画紙の組み合わせにこだわり「銀塩写真こそ写真である」と考えている写真家にとっては断腸の思いで受け入れなければいけない事件が起こったといっていいのではないでしょうか。

 撮影条件に始まり、現像液などの希釈度、液音、使用回数……、それぞれの写真家がそれぞれの方法論で現像すること。写真のデジタル化が共通言語になるまで、現像データを積み重ねて、自分の表現に最適なものを見つけ出すところから写真家の仕事は始まっていました。
 若かりし頃写真で身を立てる夢を持っていた僕も、ファインダーに結像した視界をいかに切り取るかということと、フィルムや印画紙にどう定着させるかというふたつの作業が合わさってこそ写真だと思っていました。

 ところが時代は一気に変わりました。デジタル写真なるものが出現して写真はデジタル画像+フォトショップで表現するのが一般的になったと感じていたら、今度はスマートフォンが出現し、写真は「楽しむもの、遊ぶもの、伝えるもの」という立ち位置に立たざるを得なくなったのです。当然、フィルムだって需要は激減します。特に、医療や産業分野でまったく銀塩フィルムが使われなくなったことは銀塩写真に引導を渡す決定的な出来事だったはずです。

 フォトショップを現代の暗室だと考える人もいれば、写真アプリで加工しなければ楽しくないと考える人もいるというように、今や写真に託された使命は激変しました。もっとも多いのは、撮ったらすぐにインスタにアップという「伝える」ことが写真の役割だと考えている人でしょう。このような人たちにとって「白黒フィルムの販売が終了」されたことなんて意識することもない報道だったと思います。

 レガシーは塗り替えられるものと考えるのもいいでしょう。しかし「今、そこにあるもの」を切り取る作業は「シャッターを切る」ということだけでは成り立たないのではないでしょうか。
 正面から被写体に向き合い、真摯に表現とは何かを考えながら撮っていた時代、写真は常に失敗は許されないという緊張感のもとで成り立っていました。つまり、撮ったその場で確認できるとか、フォトショで修正すればいいという逃げ道はなかったわけです。

 ちなみに、こんな批判めいたことを言っている僕も「フォトショがなければ写真は撮れない」と思っているひとりです。言い訳のように思われるかもしれませんが、一旦、写真の世界から離れ数十年経ってから写真を再発見した人間にはこれしか「写真する」方法が見つからなかったのです。そして今ではそれさえも忘れそうになっています。「典型的なアマチュア写真家の成れの果て」と言われても仕方がないと覚悟しています。

 近い将来、写真、いや今風に言うと画像は、もっとドラスティックな変貌を遂げ、新しい舞台に登ることでしょう。それがどういうものになるのかは判りませんが、技術は変わっても思想や視線は常に切磋琢磨されるものであってほしいと切に願っています。

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