∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

『敬老の日』というけれど

【昔と意味が違ってきた】

 今日は『敬老の日』です。
 僕が子供だった頃、今の僕と同年代の人たちに対しては「お年寄りは大切に」とか「人生の大先輩」とかいうような形容もすんなりと受け入れることが出来ました。
 しかし今、僕自身がこの年代に極めて近くなった今、感じることは「周囲から年寄りと呼ばれて納得できるようになるまでにはあと20年は掛かるんじゃないか」ということです。
 単純に「孫からお祝いをもらう日」ということであれば納得もします。もちろん、僕自身に年老いた祖父母や父母がいればお祝いするでしょうが、他界した彼らに何か出来るわけでもなく…。孫のいない僕がお祝いをもらえるわけでもなく…。

 『敬老の日』が制定された昭和23年(1948年)とはあまりにも時代が変わったと思いませんか。

 戦争で青年層が極端に減少し、高年齢層と乳幼児層が突出してしまった時代と、医療の進歩や環境の変化などでご長寿世代になるはずだった世代が壮年期の半ばのように感じられるようになった現代を並列で捉えるのは無理があるのではないでしょうか。
 定年延長や年金の支給開始変更など社会制度の変化は、人口が減ってくるはずだった高年齢層の「健康状態や仕事への意識、社会参加の活性化」などの変化があってこその話です。

 時すでに遅しの感も否めませんが、そろそろ「年寄りってなんだ」という社会的な定義を見直すべきではないでしょうか。このままでは時代に合わなくなった年齢別の「定年や社会保障」の制度により大きな歪みが生じることになりかねません。
 平たく言えば、新たな日本の規範を作るはずの世代を差し置いて、したたかに生きてきた元気なジジババが日本の世論を左右することになりかねません。
 この際、「お年寄りを大切にしましょう」なんて掛け声は止めて「誰にでも敬意を払う日」に変更したほうが時代に即応しているかもしれません。

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