∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 三社神社の英断 ≡≡

三社祭特別御朱印頒布中止

 数日前、三社神社のフェイスブックページに数十行数に渡るメッセージが掲載されました。(※僕はいつも身近な存在として「三社さま」と言っていますが、今回だけは「三社神社」と書かせていただきます)。

 ごく簡単に要約すれば、令和改元記念の特別御朱印を授与していた時に起こったトラブルについてを謝罪と主張をはっきりと述べたあと、後半では三社祭特別御朱印頒布を中止するという三社神社からのメッセージが発表されています。同時にこのメッセージには授与される側が知っておくべき「神社に詣でることとは何か」「御朱印とは何か」などもしっかりと記されています。

 手書きで書される御朱印をいただくには時間が掛かって当然です。記念の御朱印ともなれば数時間待ちになることも覚悟すべきことです。それなのに、時間が掛かり過ぎるとか、手順が悪いというような暴言を吐かれることがしばしばあるとのこと。今回の三社神社のメッセージの根底にはそんな”いわれなき攻撃”があるようです。
 三社神社のメッセージを読むと、神社が税金で運営されているととんでもない非常識を武器にして暴言を吐くいた不届き者もいたようです。

 また、ネット上で御朱印帳が売り買いされるのも一般的になっています。おそらく三社神社のものも売られているのでしょう。

 めんどくさいことを言うようで恐縮ですが、本来、御朱印は写経した般若心経や観音経などをお寺に納めたあとお詣りした者に授けられていたもの。それが神社にも広がって今のような形になったものです。
 いわば、厳粛に受け止めるべき宗教行為なのです。大仰な言い方をすれば、御朱印は納経から参拝、授与という行為の連続のなかで自らを清めていった記録のはずです。

 お詣りもそこそこに御朱印だけを追いかけるのは単なるコレクターでしかありません。当然、売り買いするなどもってのほかの行為です。巫女さんに暴言を浴びせる行為なんて犯罪行為スレスレの“バチあたり行為”としか言いようがありません。
 ひょっとすると、今、御朱印集めに血道を上げている輩にとって御朱印とはトレーディングカードの一種なんでしょうか。

 訪れてもいない寺社の御朱印を集めていったいどんなご利益があるのでしょう。どれだけ自らの戒めになっているのでしょう。売り買いしたり、暴言を吐いたりして手に入れた御朱印が“気持ちの拠り所”になるのでしょうか。

 ちなみに僕は、印刷や形成で作られたお守りや御札は“神社グッズ”で、手書きで書かれた御朱印や色紙などとは一線を画すものと捉えています。

 今回の三社神社の主張と発表が御朱印マニアに一石を投じてくれることを強く願っています。

 たしかに写経と納経となるとハードルが高いかもしれません。御朱印をいただくだけでもけっこうでしょう。しかし、参拝してこれまで守ってくださったことや参拝できたことに感謝したうえで、記念の御朱印をいただくという本来の姿勢は失ってはいけないものだと確信しています。

 はっきり言って、今の御朱印ブームは異常です。

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