∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 遺書を書く勇気 ≡≡

御巣鷹山から34年

 34年前の今日。羽田から伊丹に向かっていた日航123便群馬県の通称御巣鷹の尾根に墜落しました。死者520名、生存者4名。今も犠牲者への鎮魂や残された人々の心の平穏、そして事故を繰り返さないための戒めのための慰霊登山が続けられています。

……………

 御巣鷹山の事故から2カ月ほど経った頃、僕はアメリカ・ニューヨーク州イサカにあるコーネル大学を訪れました。

 ボストンから数十人乗りの飛行機に乗っていた途中から雨足が強くなり、揺れ続ける機体でようやくシラキュースに到着したのですが、荒天のため出発は延期。空港のカフェで8時間ほど待った後、ようやく10数人乗りの小型機で目的地のイサカに出発することになりました。
 アメリカのローカル線ではおなじみのペーパーカップに自分で淹れたコーヒーを持ち、地上職員から貰ったキャンディ1個をポケットに入れ、背もたれが折り畳める観光バスの補助シートのような座席に座っての出発です。

 土砂降りとはいえ出発したのだからなんとかなるんだろうと思ったのが甘かったと気がついたのは出発してから10分ほど経った時でした。酷いエアポケットに突っ込んだのか、機体が数十秒間、急激に垂直降下したのです。
 シートベルトはお腹に食い込み、窓に付いた水滴は下から上に流れていました。折り畳んであったシートの背もたれはすべて立ち上がり、コーヒーも書類もバッグも何もかもが機体の天井に張り付いてしまったのです。

 そんな状態の中で僕は残した家族のために遺書を書いておくべきかどうかを考え始めました。

 墜落していく日航機の中で家族宛の遺書を手帳に書き残された方がいらしたというニュースを思い出し「ここが死に場所なんだろうか」「オレも遺書を書いておくべきなんだろうか」と火花のように思考が飛びかったあと、事故の予感を遮るように「こんな所で死んでたまるか」「命をパイロットに預けよう」というふたつの気持ちが浮かんできました。つまり、現実から逃避して成り行き任せにしたわけです。

 あの時から、犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに、人が極限状態の中で遺書を書くためには、日常直面する決定とは比べものにならないほどの勇気と決断力が必要だと考えるようになりました。

 一般的に、人は自分が置かれた状態を見据えて行動を決定するする時、逡巡を繰り返しながら方向性を見定めていくものです。僕はあの時、置かれた状況を見据えることもなく現実逃避しました。しかし、その思考の推移は「戒め」として残り、行動規範の一部になっていると思っています。

 見ず知らずの方に思いを寄せる失礼をお許しいただいて、改めて墜落する機体の中で遺書を残された方に敬意を評したいと思います。

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