∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ その日は突然に ≡≡

“惨劇の中で生きる”ということ

 朝6時過ぎに掛かってきた電話を最後に、神戸に住んでいた母とは1日半ほど連絡が取れなくなりました。
 何度もトライしてやっと繋がった電話に出た母がやつれた声で発した言葉のなかで
「家はボロボロやけど、みんな生きとる」
「空襲のあとみたいや、神戸が全部燃えとる」
「警報の鳴った空襲のほうがまだよかった」
「いつ揺れるか判らんし、人さまの迷惑になるから今は来たらいかん」
という4つのフレーズは今も忘れずに耳に残っています。

 SNSどころかインターネットさえ利用者が限られていた時代。コンピュータは当然のこと、携帯電話だってまだ今のように普及していませんでした。
 東京で暮らしていた僕は、徐々に地震の惨劇が伝えられるようになったテレビを呆然とした気持ちで見つめながら、時間が許す限り電話を掛けて安否確認をして、いざとなればすぐにでも行けるように準備しておこうとしか思うことが出来ませんでした。

 そんな鬱々と過ごす日が続いたあと5日目。10数時間を掛けてたどり着いた神戸の街は瓦礫の中に建物が建っているような状況で、僕が知っている神戸とはまったく違っていたのです。
 アスファルトの亀裂や波打ちや瓦礫の山を乗り越え、火事の後特有の匂いが漂う中、ようやくたどり着いた避難所でようやく母や親戚と再会。東京から持ち込んだ食料と生活雑貨を渡しながらも、何を話してもおためごかしでしかないことに気がつきました。
 5日目とはいえ、歩いている間に被災者の心境に近いものを感じるようになっていた僕の身体のどこかで「頑張って」とか「何とかなる」という励ましの言葉が空虚なものでしかないと感じていたのでしょう。

 余震に怯えながら、居場所を確保し、自衛隊から食料や水の提供を受け、行方不明になっている人を探す。まだ「多くの人が亡くなっている模様」としか判らなかった地震直後の神戸はまさに大混乱状態真っ只中でした。

 そんな混沌の中を生き抜き、復興に向けて動き始めた神戸の人たちにはいつの間にか「見知らぬ人とも共に生きる。人との繋がりこそ生きる原動力」という感覚が生まれていたのではないでしょうか。

 地震を冷静に捉えられるようになった数年後、知らない人でも困っていそうな人を見かけると優しく声がけするという「共に生きる」という視線が極めて早い時期に生まれたからこそ(見た目とはいえ)復興が出来たのではないかと思うようになりました。

 「手をつなぎ共に生きる」ことで生き抜く意欲と勇気を奮い立てながら、這い上がる。

 僕はあの時の神戸で生き抜いた人たちから大切な人生訓を教わったような気がしています。

[0117 - 3365]