∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 終わりなき道 ≡≡

復旧から復興へ

 25年前の今日。地震から一夜明けた神戸の街は依然として燃えていました。

 山の麓に建っていた実家の二階からの風景を見た母が「全部燃えとる」と叫んだのがこの日でした。
 長田地区を中心に広がった火災のことは報道でもある程度伝えられるようになっていましたが、テレビで知ることの出来るのはピンポイントの状況だったり、上空からの極めて客観的な光景だったりで隔靴掻痒な思いをしていた僕にとって母のように心情の伴った広角視線の話はショッキングそのものでした。

 神戸はこの日から復興へ向けて歩み始めました。呆然としている意識を奮い立て、涙をカラ元気に置き換えて、手探りで復旧への第一歩を歩み始めたのです。
 復興の前に復旧を。その前にいまだ見つからない人の救助と実情の把握。
 地元の消防や警察、地域住民が逃げ遅れた人を助けるための作業から始まり、到着に時間の掛かっていた自衛隊や全国の消防や警察が集まるにつれて、少しずつ少しずつ途方も無い惨状が見えてきたのです。

 地震から2~3年経った頃になると住宅地では燃え落ちた家屋が取り残されいたる所に更地が広がっていました。元町や三宮のような繁華街ではガランとした店で営業はしていました。
 地震直後、小さな小売店がそれぞれ壁面をガムテープで固定し、ろうそくや小型発電機で明かりを確保しながら営業していた湊川市場や東山市場では住宅兼店舗のビルを建てるための工事が始まっていました・
 そんななかでもっとも復興事業の取り組みが遅れたのが福祉でありPTSDへの対処だったのではないでしょうか。なにしろ、今のような大規模災害時の公的な取り組みシステムが整っていなかった時代のこと。この分野はどうしても二の次に取り扱われる存在だったのだと思います。

 その後、新潟中越、東日本、熊本とマグニチュード7以上の地震が日本を襲いました。手探りで復旧を進めた神戸での経験が、防災、消防、警察、医療、福祉、行政などあらゆる危機対応組織で咀嚼され、対策が確立されていきました。

 しかし、被災者の心のなかに残っている傷跡はいつになっても消えることはありません。“街が新しくなったから復興した”わけではないのです。いつまでも消えない傷跡とどう向き合っていくかという命題に答えはありません。あの時の惨状を思い出さないように目を背けるのが一般的でしょう。
 もちろん、歴史になり始めている惨状について語り続け、伝え続け、警鐘を鳴らし続けることで“傷跡が強くなる”ことはできるでしょうが。

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