∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ あれから26年 ≡≡

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阪神淡路大震災とコロナ禍の関係

 今年も、忘れてはいけない日がやってきた。

 1995年1月17日火曜日5時46分。26年前、淡路島北部を震源とする阪神淡路大震災が発生した。


 地震発生後30分程度経った頃、私の母は、何が起こっているのかも分からない状態の中で「地震やー、どうしよう」とで電話を掛けてきた。その後約1日、電話は不通になってしまい、私自身も何が起こっているのかを知る手立てはテレビから流れる報道しかなかった。
 電話が復旧し、状況を聞けるようになると、母は「長田の方の空が真っ赤や。燃えとるんや。怖い。空襲警報が出て逃げる時間のあった空襲のほうがまだよかった。2階の壁は5センチほど裂けとるし、瓦も半分ほど落ちてしもた。それでも、皆さん同じやから我慢せなあかんねん」と一気に話してくれた。
「皆さんのじゃまになるから、今は来たらあかんで。義理のお兄さん夫婦とおばあちゃんの5人で明日から小学校に避難する」。
 発生後3日経ち、明日から雨が降るという状況になった時、母はこう語ったが、私は来るなという声を振り切って、発生後5日目に神戸に入った。そして、信じられないくらい荒れ果てた世界の中で、誰もが手探りで“生きよう、助けよう”としている現実と直面することになった。


 振り返ってみると、この日は私が生まれ育った神戸を中心とした阪神間に未曾有の大災害が起こった日でもあり、大都市災害への対処をゼロから考え直しはじめた日だったのではないだろうか。

 あれから26年。この未曾有の大災害を契機に、日本は緊急事態が起こった時の対処方法を一変させ、新たな意識のもと災害救助の方策を築き上げる努力を積み重ねてきた。
 東日本大震災やそれ以外の災害でも活躍したDMATのような医療体制もそのひとつと言えるだろう。

 神戸の地震で特に意識が根底から変わったのは「横のつながりを重視した組織的な連携」、「迅速で臨機応変な現場対応」、「通信や情報発信の重要性」だったのではないだろうか。
 言い換えれば、杓子定規な前例主義からの「迅速・連携・大量動員・現場重視・きめ細やかな情報発信」への転換である。

 そのはずなのに。コロナ禍でその鉄則は生かされているだろうか。

 国は、コロナ禍は大規模災害ではないと位置づけているが、本当にそうだろうか。物理的な壊滅状態に陥っていなければ大規模災害ではないのだろうか。無防備、無抵抗の不特定多数の人々が命の危険に晒される状態は大規模災害ではないのだろうか。
 今のコロナ禍が落ち着いた時点で変化を求められるのは、政治だけと言っても差し支えないだろう。

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