∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 集団免疫獲得を目指すのか ≡≡

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国情や国民性の違いだけでは語れない
日本とアメリカやヨーロッパ諸国の違い

 『新型コロナデータサイト』がまとめた10万人あたりの新規感染者数で比較してみよう。日本が1.3程度なのに対して[アイルランド約1100人、フランス約720人、イギリス約650人、ポルトガル約510人、オランダ約430人、アメリカ約360人]と日本の状況とは2桁どころか3桁違う数字が並んでいる。

 もしも日本でこんな状況になったらどういうことになるだろう。確実に街から人はいなくなるはずだ。そのうえに政府は右往左往しながら“お願い”を出し続け、専門家は大騒ぎし、飲食店は悲鳴を上げ……。とにかく、ありとあらゆる側面から日本の存在自体を否定的に捉える意見が噴出して、国民的なパニックが起こるのは必至だろう。

 ところが、当のアメリカやヨーロッパ諸国では感染者拡大を止める政策よりも経済活動を停止させない政策を取り続け、国民も意外と平然と受け止めている。

 現在の状況をみていると、法的な制限を課すことで感染と経済の両立を図ろうとする国と、予防策の基盤は整えるが、感染抑制そのものは自主的な予防策に誘導しようとする国との違いが鮮明になってきたのではないだろうか。
 特に「個人の意志と経済活動こそ最優先させるべきだ」と考える国と、「個人の意志と公共性の両立を叶えよう」とする国との間には“自由の意味”には決定的な違いがあるようだ。

 こうなると当然、感染収束という着地点に関しても明らかに違ってくるはずだ。
 強引な区別を付けるとしたら、日本が右往左往しながらでも「何とかしのいで収めよう」と模索しているのに対して、アメリカやヨーロッパ諸国は心の底で「拡大するだけ拡大させて集団免疫を獲得すればいいじゃないか」と考えているのではないかと想像したくなってしまう。

 国情や国民性の違いだけではない何かが大きな違いを生み出しているが、そんな違いの中から日本が学ぶべきことはどこにあるのだろう。
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[season12/1227/25:10]
冬至』の候‥一陽来復。陽の光が伸びるにつれ陽の気が戻ってくる
photograph:SKY, downtown-tokyo
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