この続きはコーヒーと一緒に

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

あの瞬間、読書好きになった

中学3年間、夏休みの読書感想文をヘミングウエイの『老人と海』一冊で通したくらい本は嫌いだった。当時出たばかりだった『アンアン』や『話の特集』や『ワンダーランド』『ジャズ批評』なんていう雑誌は大好きだったけどね。
ところが、高校に入ってすぐの何かの授業中、隣に座っていたY君が文庫本を読んでるのを発見して、なぜか、何を読んでいるのかがすごく知りたくなったワケ。
で、授業が終わった後、その本を借りることにして次の授業から読み始めたんだ。それが太宰治の『人間失格』。本当に一気に読んだ。本を読んで自分の立ち位置がグワーンと揺らいでしまった感覚は初めて。今思うと、本を読むっていう「読書パワー」が一気に目覚めた瞬間だったんだね。
それからですよ。読書にのめり込んだのは。でも、なにを読めばいいのか分からなかったし、そんなこと人に聞けないし。だから本屋さんに行って、当時一番安かった一冊50円の文庫本を片っ端から読んだわけ。あっ、岩波書店の硫酸紙のカバーがついたヤツが多かったと思うな。
そうやって、日本も海外も古いものも比較的新しいものも、ある程度の目安を作ったワケ。はっきり覚えてないけれど、たぶん2年くらいかけたと思うな。
それからはお金があれば本を買ってた。ひたすら読んでたね。それもジャンルは問わず。芥川龍之介でも、アメリカのパルプ・マガジンでも、ミステリーでも、短編集でも、詩集でも、伝記でも。とにかく手当たり次第。
そんなことをしている内に出版社に入ることが出来て、時間もないのに一層本を買って読むようになったワケ。そこでジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』に出会ったんだけど、この本が僕の読書スタイルの第二の変換点になったといいてもいいと思う。ストーリー・テリングの楽しさが一番だけど、取材の細かさや綿密な構想の組み立て方まで考えながら読んでしまったワケ。
近頃だったら『ダ・ヴィンチ・コード』や『大聖堂』ってとこかな。
今じゃ、古典的な「文学」よりも、はじめに取材ありきのストーリーテリングのほうが僕の読書スタイルには合っていると確信しているね。