∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

不世出の歌姫、ふたり

【1980〜90年代】


 最高の歌姫として一世を風靡したホイットニー・ヒューストンさんが亡くなりました。透き通った高音域、豊かな声量、素晴らしいとしか言えない彼女。グラミー賞を6回も獲得したのも頷けます。
 彼女がデビューしたのが85年、映画『ボディガード』のサウンドトラックとして発表され、のちにシングルカットされた彼女最大のヒット『オールウェイズ・ラブ・ユー』が発表されたのが92年。この歌を聴いて、どれだけの恋が生まれたか想像もできないくらいです。
 ちょうどその頃、経済史的に86年から91年。アメリカが本格的に復活する直前。日本ではバブル時代に突入していました。そんな時代を彩るサウンドとして彼女はぴたりと「ハマり」ました。結婚式でも飲食店でもラジオでもテレビでも、まさにどこへ行っても彼女のサウンドが聞こえてきた時代です。
 ところが、彼女は絶世期からドラッグとアルコールで身体を傷め続けていました。また夫からのDVにも悩み恐れていました。結果的に声量も音域も新たなヒットも減り、更生施設でドラッグやアルコールの魔力から逃れようともがく生活を余儀なくされるようになっていました。
 今年のグラミー賞の前日のパーティで久しぶりに歌声を聴かせてくれるはずだったのに、その準備中に亡くなったとのこと。亡くなったホテルが大成功を治めた芸能人にもっとも相応しいビバリーヒルトンだったというのも何かしら因縁めいたものを感じさせます。
 
 
【1930〜50年代】


 不世出のジャズ・シンガーとして今も語り継がれているビリー・ホリデーがデビューしたのが33年。新進気鋭ののクラリネット奏者として注目されていたベニー・グッドマンたちとの共演でした。
 そしてあの代表作『奇妙な果実』が生まれたのが39年。人種差別の狂気を歌った名曲です。優しくも強くもなる彼女の歌声はジャズファンを沸かせ、数十年経ったあとも魅了し続けることになります。
 しかし彼女のプライベートには、当時のアメリカが抱えていた「悪」が付きまとっていました。人種差別、暴力、搾取、偏見、ドラッグ、アルコール。しかも男に収入のすべてを吸い上げられるようにもなっていました。のちにアル・カポネと呼ばれるようになるジョン・レヴィがその男です。
 レコード会社と新たな契約を交わし、成功への道を歩み始めても、その契約さえ認められないとされたこともあったようです。ドラッカーのためキャバレーへの入場が禁止されたため公演も認められませんでした。結果的に彼女は生活のため、厳しく辛い巡業で暮らしていくことしかありませんでした。
 48年にニューヨークのシティホールでのコンサートで大成功を治めます。アメリカが戦勝国として沸騰していた時代です。そしてこの公演を最後に彼女の歌声は徐々に聞かれなくなっていきます。ドラッグとアルコール、人種差別と宗教的に絶対認められないレズビアン。すべてが逆風になって彼女に襲いかかります。それでも58年には『レディ・イン・サテン』(コロンビア)というアルバムを発表します。かすれた声、絞り出すように歌いあげる弱々しい声量。全盛期の張りのある声とはまったく違う声でしたが、鬼気迫る迫力が備わったものでした。
 1959年7月17日。身も心もズタズタになりながら彼女は亡くなりました。
 それから15年ほど経った頃だったでしょうか。僕は始めて彼女の歌声を聴き、身体中がゾクゾクピリピリした覚えがあります。
 
 
【二人の歌姫】


 ホイットニー・ヒューストンが亡くなったというニュースを聞いた時、なぜかビリー・ホリデーのことを思い出してしまいました。
 時代を代表する最高の歌姫でありながら、ドラッグとアルコールに身体を蝕まれ、暴力に怯え続けたふたり。アメリカの暗部や人間のサガを背負いながらも歌い続けた彼女たちの作品は未来永劫聴き続けられるでしょう、素晴らしきアメリカン・サウンドとして。
 
 
 素晴らしいサウンドを残してくれてありがとう。そして、どうぞ安らかにお休みください。
 
 
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