∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

「あの日から23年」──その日まであと5日

【我が家のお地蔵様】

 我が家の仏壇には父母の位牌と並んで一体のお地蔵様が安置されています。高さ15センチ程度。直径6センチ程度。薄い小豆色。手びねりで作られたものです。
 当時、神戸市兵庫区五宮町の祥福寺にいらした専門道場師家で、のちに臨済宗妙心寺派管長や花園大学名誉学長を務められた山田無門師が、阪神淡路大震災のあと、亡くなった方々への鎮魂のために自ら数百体を作られたもののうちの一体で、今はなき母が直接いただいたものです。

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 今年も鎮魂の日が近づいてきました。

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 まだ寝ていた僕に神戸に住んでいた母から電話が掛かってきたのはニュース速報でも被害の大きさが伝わってこなかった早朝でした。地震発生後数時間は場所によっては電話が通じていたんです。
 母から経験したことのない地震に襲われたことを伝えられても、テレビでもほとんど情報らしい情報は流れてこないし、今のようにSNSなんてほとんどないに等しい時代のこと、僕には神戸で何が起こっているのか把握することはできませんでした。

 その後、情報がぞくぞくと入り始めた頃には電話が通じなくなり、母の状態や親戚の安否を確認することはできなくなりました。
 再度通じるようになった一日後、ありがたいことに関係者が無事だったことが判りホッとしましたが、その頃には膨大な量の情報が入ってくるようになっていました。
 神戸で前代未聞の大地震が起こり、湊川から長田にかけての広い地域で発生した火災のことや、六甲山系と瀬戸内海に挟まれた、いわゆる神戸の旧市街全域で家屋が倒壊し、多くの人が犠牲になっているようだということが判ってきたのです。

 「空襲の時より酷くて怖い」と言いながらも「神戸には来るな」と母は言い続けていましたが、ようやく「来るんだったら食物や水は自分で持ってくる」と「そのままの恰好で眠れるような服装であること」を条件に許してくれました。5日後に神戸にたどり着くまで半信半疑でしたが、交通機関など何もない神戸の街を歩いていて、その真意を肌で感じることになったのを覚えています。

 母や親戚と再会を果たしてホッとしたものの、全員がこの先どうすればいいのか判らなくなり、余震に怯え、言葉にできない恐怖に襲われ茫然自失状態に陥ってしまったのは忘れられません。

 こうやって阪神淡路大震災との戦いが始まりました。自然の怒りは短期間で収まりますが、制度や環境を見直して生活を取り戻すには長い時間が必要だ判ったのは数年後だったと思います。

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 山田無門師が手びねりのお地蔵様をお作りになったのはこんな大混乱時の数カ月後のことでした。母がいただいたという話を聞いた時には地震のあと初めて気が緩んだのを覚えています。
 今では、徐々に物理的な復旧は進み始めてはいるものの、被災者や関係者を襲っていた精神的な荒廃を収め、亡くなった方々への鎮魂の意を表すことで、復旧への原動力を取り戻そうとされ、お地蔵様を作られたのではないかと想像するようになっています。

 今年の鎮魂の日は「人」に的を絞って振り返ってみます。

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