∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

「あの日から23年」──その日まであと3日

【交通センタービルを見上げながら】

 地震から2〜3週間経った頃、親戚の隣とは言え、ひとりで暮らしていた母の体調が急激に悪くなったため、一旦避難させようということになり、荷物をまとめて妹が住む横浜まで連れてきました。

 大きなフレームパックを背負い、長さ1メートル近く太さ50センチ程度という巨大なショルダーバッグを2本たすき掛けにし、大きめのバッグを両手に持ち、神戸の実家を出発して新横浜まで。通常なら3時間半もあれば充分に到着する場所です。
 ところが、街中は地震の被害で至る所が通行止めや瓦礫の山。奇跡的に通りかかったタクシーでJRの連絡バスが出ていた三宮まで行こうとしたのですが、元町あたりでまったく進むことができなくなり歩いて向かうことにしました。

 ご自宅が被災後、初めて営業に出たと話していたタクシーの運転手さんは目的地に着けなかったことを悔しがりながら謝ってくれましたが、僕は逆にそこまで通れる道を探しながら運んでくれた彼に心から感謝するばかり。最後には「お互い、がんばりましょう」と声を掛け合い別れました。

 そこから瓦礫の山を避けながら数十分掛けて三宮駅に着いたのですが……。

……………

 大丈夫ですか。怪我はないですか。歩けますか。手伝いましょうか。

……………

 瓦礫の山を越えてようやく三宮の交通センタービルが見える所まで来た時、何かにつまづいて、まるで木の棒がパタッと倒れるように転けてしまったのです。
 なにしろ身体中がバッグだらけで身を守る動作がまったくできないうえに、ショルダーバッグが重りになってどうしようもありませんでした。

 それを見ていた見ず知らずの多くの方が声を掛けてくださいました。ちなみに母が呆然と立ち尽くしていたのを覚えています。

 生まれ育った街とは言え、こんな声をかけてもらったのはこの時がはじめて。僕は「大丈夫です」と言いながら立ち上がるのが精いっぱいでした。危機に瀕した時ほど冗談を交えるべきという関西の流儀に習って「2階から数階分が押しつぶされたままだった交通センタービルを見ていたら瓦礫につまづいてしまいました、ハッハッハ」なんて冗談交じりに言えるような状況ではありません。声の調子から皆さんが、あっけにとられながらも、真剣に心配してくださっているのがヒシヒシと伝わってきましたから。まあ、さすがに大きなバッグの中に埋もれ、地面から浮いた状態になっている僕を助け起こそうとした方はいらっしゃいませんでしたが。

……………

 危機に直面した時、人は真の優しさと手を繋ぐことの大切さを思い出す。

……………

 何とかして送り届けようとしてくれたタクシーの運転手さん。突然パタッと転けた僕に声を掛けてくれた見ず知らずの皆さん。あの時の皆さんの「気持ち」、全身で受け止めました。本当にありがとうございました。出発してから12時間ほど掛かりましたが、無事に横浜までたどり着けました。
 型通りとか計算づくの言葉とか、マナーだからなんて「上辺の言葉」は一切なし。本心から人を思いやるというのはあの時の言葉だったと確信しています。

 僕は地震でグチャグチャになった神戸で「本当に人を思いやろうとする心情は、置かれた環境と共感できるかどうかに掛かっている。そして、そんな心情は危機に直面している時しか生まれない」ということを知ったのかもしれません。

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