∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

論語の書き取り

◇何を隠そう、僕は毎朝、論語を一つずつ書き取り、音読することにしている。
 理由は何もない。いや、ないわけではない。
 数年前、毎月1回、早朝の銀座で論語素読を行う会があり、出席していた頃のことを思い出し、始めたのだ。
 その会にはビジネスの世界で日々闘っている人たちが多く出席していた。そのため、論語はもちろんのこと、名刺交換会のような雰囲気もあった。当然、僕も何人かの人たちと知りあうことができた。
 しかし、何年か経ち、思いだしてみると、朝から、論語を大きな声で素読すると、何故か、人生にとって大切なものを教えられているような気持ちになれる。正直なところ、気持ちになるだけで、どれだけ自分の身に付いているかというと疑問だが。
 なによりも大声を出すことが気持ちよかった。背筋が伸びるような気持ちになれるとでも言えばいいのだろうか。不思議とスッキリするし、エネルギーを貰ったような気持ちになれるのだ。
論語とは、紀元前5世紀頃から孔子の門人が編纂を始め、紀元前2世紀頃に集大成された、孔子とその門人の言行録である。孔子が生きた時代の道徳観を集めたものなのだが、その言行は現代でも通用する。つまり「普遍の言行」と言っても過言ではないだろう。
 約20章に分けられた570編ほどの言行には、道徳というよりもビジネス観や人生観が詰まっている。
◇とはいえ、僕にとって論語が直接的に何かの役に立つというわけではない。しかし、何故、いままでこの言行録を真正面から捉えなかったのかと思うこともしばしば。なるほどと、一人で頷いていることもある。
◇こんな論語を毎朝、一つずつワード文書として打ち込み、大声で素読している。ちなみに、僕が書き取っているのは、江戸時代に表された読み下し文である。原文を書き取り、読みこなすほどの知識も学問的教養もない。読み下し文で精いっぱいなのだ。
 しかも、読みが難しく、簡単には表記されない文字も数多いため、書くだけで唸ってしまうこともある。ところが、それがまた、面白い。知らなかった文字もあるし、こんな読みがあるんだとはじめて知った文字もある。
 なにしろ、同じ「曰わく」でも孔子が語る時は「のたまわく」、門人の言葉の場合は「いわく」というように読み方が違う世界である。すべて書いてある通り、なにもかも信じて書き写していくことにしている。
◇その書き取りと素読のひとり舞台は、ようやく全体の3割ほどまでたどり着いたところ。まだまだ続きそうだ。おそらく、原本にしている岩波文庫の『論語』はボロボロになるだろうが、そうなって欲しいという気持ちもある。秘かに、ボロボロになった文庫本をどうしようか、なんてことも考えている。
 とにかく、1年半ほどで完了する計画である。焦らず急がず、一歩ずつ進めていこう。これが終われば、次には兵法の書『孫子』が控えている。
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