∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

それぞれの時間感覚

【濃密な時間】


 数年前まで、ひとつのことに集中する時間がなくて何をやるにもマルチタスクだった頃、いつも僕の頭の中はフル回転だった。あれもこれもデッドエンドの時間ばかりが気になって、あたふたと走りまわる生活が当たり前。余計なことなんて少しも考える余裕はない。直面している問題を解決するだけで一日が終わっていた。世の中の動きや人の心情なんて考えている余裕なんてまったくなかった。考えられるのは休日だけ。夜も倒れるように寝るだけで精一杯だった。
 ギュッと凝縮された時間の中でどれだけの仕事がこなせるか、それこそ自分に与えられた使命だと身体が反応していたのだろうか。時間をいかに濃密にしていくか、それも能力のひとつだと感じていたのかもしれない。


【空回りの時間】


 その後、一日のうち、数時間と言えども、じっくりと自分を見つめられる時間的な余裕が出来た。
しかし、はじめて時間的な余裕が出来た頃「何もしていない」という焦りを感じることも多かった。途方に暮れるといってもいいかもしれない。
 そんなゆっくりと進む時間と直面して、静かに粛々と物事を進めていくことなんて考えたこともなかった僕は「何かしなければ」とそれまでにも増してがむしゃらに物事を決め、切り崩そうとしていた。
 これだけの時間があれば、なんだって出来るはず。そんな意識が自分を責めて鞭打つような感情に支配されていたような気もする。つまり、空回りの時間は無駄な時間としか思えなかったワケだ。


【充実の時間】


 そして、今。ゆっくりと流れていく時間の使い方にも慣れ、集中する時と解放される時の切り替えも上手く出来るようになった。
 それと同時に自分を見つめることや人のことを思い考えること、あるいは、世の中の動きを第三者の目で見つめることもすんなりと受け入れることができるようになった。
 こう書くと、以前の僕が「何もできない人間」だったような気もするが、それならそれで結構。確かに視線が狭かったのだから。
 「ふと我に返り、見つめ直す」という言葉がある。まさに今の僕はこんな状況にあるのかもしれない。いや、ここ数年と言ったほうがいいのかもしれない。そして、僕はこんな時間がとても充実した時間と感じるようになった。アタフタと過ぎ去っていくだけの時間だけで一日が過ぎていた頃には想像もできなかった感覚である。


【再燃の時間】

 
 ところがである。近頃の僕は、また「空回りの時間」に突入しようとしている。どうしてと言われても、自分に問うても分からない。何故かあの焦りの時にシフトしようとしているのだ。
 今のところ、自分でセーブしているが、どうなることやら。せっかく広角視線の効力に気が付き、「のめり込みすぎない自分」のペースに慣れたのに。
 それならそれで、突入してみようか。
 ひょっとするとその先には新たな「濃密な時間」が潜んでいるのかもしれない。でも、きっとその時には以前とはまったく違った立ち位置で自分と周囲を見つめることができるはず。
 少なくとも、時間感覚に関して僕は脱皮した。僕は以前の僕ではない。


[205/1000]