∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

江戸伝統工芸**江戸押絵羽子板**

【年末の浅草寺


 熱中症の心配が尽きないこの季節に年末行事を取り上げるのには多少、抵抗があるのだが……。
 毎年12月17日から19日、浅草の浅草寺は『羽子板市』で賑わう。浅草寺で「納めの観音ご縁日」とされているのがこの『羽子板市』である。一年最後の縁日でもあり、この後は大晦日まで大規模な縁日は立たない。
 この時に売り出されるのが「江戸押絵羽子板」である。その年の有名人をかたどった羽子板が登場するのもこの時。年の瀬の風物詩として紹介される、ニュースの定番である。


【江戸押絵羽子板】


 押絵羽子板というのは、厚紙台紙に綿を包んだ布を貼り付けた部品を組み合わせて羽子板の「板」に張り付けたもののことをいう。
 絹を使ったり、色鮮やかに着色したり、金銀を使ったり、大きさを競ったりというように華美を競うようになったことから、爆発的に人気が集中した江戸時代には幕府から制約や販売禁止令が出たこともあったという。
 そんな禁止令の原因になったのが歌舞伎役者、つまり「時代の人気者」の似顔絵を付けた「役者羽子板」である。浮世絵の役者絵や美人絵と同様、生活を謳歌する術を知っていた江戸人ならではのエピソードといってもいいだろう。
 ちなみに、大阪で活躍していた井原西鶴の『世間胸算用』では「江戸では押絵羽子板がほかの正月玩具と肩を並べて売られている」と記されている。つまり、押絵羽子板は江戸では流行していたが、大阪では見られない玩具と考えるのが自然。押絵羽子板の原産地は江戸だったのである。そして、その歴史が今も廃れることなく東京の下町で生き続けているのだ。


 羽子板のそもそもは室町時代の正月儀式用の道具として登場したものらしいが、その後の変遷の中で競技用と飾り物のふたつの流れが出来あがっていった。当然、押絵羽子板は後者の飾り物に入り、
 町人文化の発達と歌舞伎の隆盛が生んだ江戸伝統工芸である。


【今も続く伝統】


 女の子が生まれた家にガラスケースに入った押絵羽子板を贈り、贈られた家ではそれを正月飾りにする。こんな伝統が東京の下町では今も生きている。少なくとも、羽子板市の地元、浅草では半ば常識のように扱われている。こんな時に贈られるのは「藤娘」のような歌舞伎一八番から取られたものが主流。「助六」のような華やかな遊郭風景を思い出させるものにも人気があるようだ。
 正月には押絵羽子板、3月には雛飾り、5月には鯉のぼり、そして祭提灯。それぞれの時期にそれぞれの飾り物。これも下町の伝統的な風景のひとつだろう。


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