∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

無知からくる差別観

【子供の時から】


 子供の頃から「昭和20年8月6日に広島に原爆が投下され終戦が決定的になった」ということと、「原子力は安全なエネルギー」「原子力が未来を開く」ということを教えられてきた。また、「広島の人たちは原爆によって放射能に汚染された」ということも私的な場面では語られてきた。
 正直なところ、つい最近まで「原爆は恐ろしいもの、人類が二度と使ってはいけない兵器」という意識と「原子力発電は安全でクリーンなエネルギー」という認識は結びつかないものだった。
 ところが、3月11日、正確にいうと3月14日には原子力発電所が崩壊した時、それは原爆投下に似たような事故になる、ということが分かった。


【難解な用語】


 2011年3月12日に、原発津波の影響で事故を起こしたが、放射能汚染に関しては「人体に影響がないレベル」だという第一報が飛び込んでいた。ところが、時間が経ち、状況把握が進み、事故そのものも事態が悪化するにつれて、未曽有の大事故であることが明白になってきた。
 事故のニュースが増えるにつれ「シーベルト」「ベクレル」という言葉が盛んに言われるようになったが、僕にはその意味が理解できず、ただひたすら「大変なことが起こっている」と感じるばかりで、正確に事態を把握することなど不可能だった。それが単位を表す言葉であることさえ、あやふやだったことを覚えている。
 当時、何人の日本人がその意味を理解していただろう。おそらく原子力や物理学の研究者以外で正確に理解していた人はいなかったのではないかと想像しているが、それでも、それらの言葉は独り歩きをし始めた。と同時に、何もかもが信じられなくなってしまった。


【防御と拒否】


 人間は未知のものに遭遇すると生理的に防御の態勢に入る。そして、自分の知識や経験を総動員して事態に対応しようとし始める。それがある時、順応や拒否や理解へと変化していく。徐々にではあっても知識を吸収し、事態を把握し、自らの対応を決める。
 そうやって自分の立ち位置を決めてから、もう一度同じ事故を見つめ直すと、同じものがまったく違った見え方をするようになる。これもまた、人間の本能的な思考の進化と言ってもいいだろう。
 ところが、知識を吸収する時点で、その発信源を信頼することが出来なくなったり、正反対の意見や研究結果が飛び込んでくると、判断がつかないようになり、結果的にすべてを拒否して完全防御の態勢に入ってしまう。
 たとえ「負のプロパガンダ」がなくとも、情報が錯綜すれば正確な判断が出来ない。このような状況に陥ると、結局、感じ取っている印象を第一義とした判断が優先されるようになる。


 「イスラム教は過激なテロ集団である」とか「放射能はうつる」といったまったくのデマや虚言がまん延しなくとも、確信できる正確な情報と真摯な反論を受け取れない限り、人は自らの安全を守るために防御し、大きな変動がない限り、その態勢を維持する。あるいは、状況を無視して、無関係の立場に自分を置こうとし始める。


 冷静に事態を見つめているように思っていても、何か未知のものが自分に向かってきたとしたら、一気に視点が変わり、防御と拒否の姿勢を取るようになる。しかも、何かが隠されているという疑問があればなおさらである。
 今、日本に住む人間の多くはこんな立場にいるのではないだろうか。
 あえて言う。正確な情報、煽ることのない真摯な立場からの反論を元にした知識の吸収と蓄積がない限り「広島の悲劇」は繰り返される。


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