∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

机上の空論と風評の形成

【研究することに意義あり】


 基礎研究の中には「どのような利用方法が考えられるか」を第一義に考えずに進められるものがある。そうでなければ、次に待ち構えている応用研究の可能性を狭めてしまうこともあるため、あえて「目的」を絞らずに研究を進めるわけだ。
 ところが、その研究だけで満足してしまい、応用やデメリットの発表を忘れてしまう研究者が出てくることがある。特に、国策や産業機密が深く関与している閉鎖的なものであればあるほど「研究することに意義あり」の発想が強くなってくる。こうなってしまうと次には「分かる人だけが分かればよい。この研究の意味が分からない人間は、応用された時に利用するだけでよい」という発想が生まれる。
 ここまでくると学問の社会貢献という理想から離れ、学問のための学問という閉鎖的な世界に入り込むことになり、市民生活を無視し始める。


【産学協同】


 企業体と共同で研究開発を進める産学共同研究の場合、基礎研究と応用研究が混然一体となって進む。ところが、企業だけなら目標は新技術の応用による利益追求というハッキリとした目的が設定されるが、ここに政治という「権益集団」が入り込んでくると話が複雑になってくる。「この方向で進めてくれ」とか「この研究集団や企業を仲間に入れてくれ」というような研究者からすれば厄介な問題が出てくることが常態化してくるわけだ。
 それを巧みにさばき集約できればいいが、研究者の人生そのものまで失なわせる可能性を秘めた注文を出された場合、研究者は正義感までも失ってしまうことがある。原子力研究のような国策そのものの研究の場合は特にその傾向が強くなる。なかには研究者でありながら、強大な政治力を持つようになる者だって存在し始める。
 そうなると、市民感覚や世論などに注目することなく自らの権益や権力を守り始めてしまう。同時に、内心では、「黙れ、下々の者は私の研究を邪魔することなく、結果を信じていればいい」という悪のプライドを持つようになってしまう。
 もちろん、強大な政治的な権力を持った研究者は異を唱える人間を周囲には置かない。そればかりか、完全否定することによって異論を封じ込めてしまう。
 たとえば、エイズ研究のことを思い出してほしい。たとえば、原子力研究の総本山の発表や対応を思い出してほしい。政治的発想から始まった研究であればあるほど、この傾向が強いことを理解していただけるだろう。


報道の自由


 では、こんな硬直化した研究こそ、報道の鋭いメスで白日の下に晒して本来の姿に戻すことはできないだろうか。正直なところ無理、と言っておこう。
 少しでも情報が欲しいと願うジャーナリストにとって、閉鎖性の強い研究ほど慎重に情報の取捨選択を行い、強い発言力を背景に持つ研究者を「崇める」ようになったり、「慎重な報道イコール裏付けの取れない情報に関しては発表しない」という姿勢を取るようになり、結果的に重要な危険情報の多くは発表されなくなる。つまり、闇に葬られるわけだ。
 このような図式が完成されてしまうと市民レベルには本当に重要な判断材料が提供されなくなる。そして、万一の事故などが起こった時だけ「不安材料」を薄めた情報だけが提供されるようになる。


 つまり、政・学・産の悪魔のトライアングルに報という要素が絡み合ってくるわけだ。そして、最も正義感が強くなければいけないはずの報道までもが悪の道を選ぶようになった時、市民生活は最悪の場合、「正しい方法」を持たない「無政府状態」に陥ってしまう。
 ほとんどの場合、報道関係者は姿勢修正を自らに課すことも当然とする「人種」のため、どこかで気付き世論の修正を図るようになるが、事態が大きければ大きいほど、修正には時間が掛ってしまうことが多い。


 さあ、報道関係者諸君。そろそろ、正しい方向への修正のスピードアップを図ってほしい。事態は切迫している。真実はどこにあるのか、明確にする時が来ている。


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