∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

1995年1月17日

【すべてが変わった日】


 「地震やー。コワイー」。
 17年前の今日、ちょうど今くらいの時間だったと思います。母が声を震わせながら大声で電話をしてきました。
 寝ていた僕は、寝ぼけながらテレビを点け、ニュース番組を探しましたが、どこも臨時ニュースなどやっていません。しばらくするとテロップが出て「神戸を中心とする地域で大きな地震が起こった」とようやく分かったのですが、規模や地域などまったく分かりません。
 そんなことを母に伝えながら「とにかく落ち着いて。隣に住む義兄夫婦と祖母の4人で一緒にいるように。こっちはテレビのニュースをずっと見るから」。そんな話をして電話を切りました。
 その後、時々刻々と被害状況が伝えられ始め、ようやく大変なことになったと気が付いた頃にはもう会社へ出掛ける時間になっていました。そこまで2時間半程度。出掛ける前にもう一度電話を、とかけてはみたもののまったく通じません。こうなると心配は募るばかり。ニュースを見続けていたいけれど仕事にも行かねばと後ろ髪を引かれるような気持ちで出掛け、会社に着くとすぐにテレビのある部署へ行き、もう一度ニュースを確認。そしてまた電話。まったく通じません。
 どうしてあの時電話を切ってしまったんだろうと後悔しながら、心ここに非ずの心境で仕事を片付け始めました。何度も電話をしたのですが、通じる気配もなし。ワンセグの見られるケータイなどない時代のこと、昼休みもテレビのある蕎麦屋へ行き、食事よりもニュースに集中、何を食べたかなんてまったく分からないまま仕事に戻りました。とはいっても仕事など手に着きません。なんとか仕事をしている振りをして夜は早くに帰宅。そこからは、まさに徹夜でニュースを見続けました。
 そして次の日の朝、電話が通じました。今考えると奇跡的な事だったと思いますが、当時は長すぎる不通が解消されホッとしたものです。「テレビで見た。大変なこともよくわかった。明日にでも行こうと思うんだけどどうだろう」こんな質問を母にすると「来なくていい。来ても食べるものもないし、交通機関もない。どこへ行っても潰れたり燃えたりした家と倒れたビルばかりで歩くことも難しい。長田のほうから黒い煙が上がっていて収まらない。こんなことになるなんて。少し落ち着いてから来ればいい」と言いながらも「空襲のほうが良かった。あっちは空襲警報があって逃げられた。地震は逃げられない」と泣きそうな声で話してくれました。
 一瞬の出来事から24時間。状況が分かるにつれ、気持ちは沈み、おろおろするばかりです。しかもこちらとしては一刻も早く現地に行きたいのに、母は来るなと言っています。止むを得ず、ニュースで状況を確認し、少しでもいいから「いいニュース」がないものかと見続けました。正直なところ自分がパニックに陥らないようにすることで精一杯。心配するばかりで何もできないことを情けなく思うばかりでした。
〈明日に続く〉


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