∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

《情報の洪水の中で─その2》

地震二日目】


 この日、情報公開の倫理観や方程式が大きく変わりました。いや、そのはずなのですが……。まだその変化は現れていないけれど、いずれ変化は大きなうねりになるはずといったほうがいいかもしれません。
 福島の原子力発電所津波に襲われ、水素爆発を起こしかねない状況になった日です。
 原発が大事故が起こり放射能が拡散され、地元の人たちはもとより、日本中だけでなく世界中がその具体的な情報を求め始めました。
 しかし、政府の発表はすべて「このような状況だが、人体に影響はない」というものばかり。その上、原子力安全委員会が発表するものは原子力の知識が乏しい一般市民には理解できない難しい単位やテクニカルな話に終始していました。また、その委員会の委員長は一度も出席しない事態が続きました。


 この時から国民の政府や原子力行政への不信が始まったといっても過言ではありません。正確に今の状況を伝え、誰もが理解できるものが求められている時なのに、「人体に影響はない」の一点張り。どう考えても影響はあるだろう、それが証拠に周囲20㎞以内の住民は避難させられはじめたではないか。なによりどうして委員長からの説明がないんだろう。こんな感情を抱いた国民は多かったと思います。


 こんな状況になっても何かを隠さなければいけないのか。それとも「国民がパニックを起こさないために隠すべきものは隠す。本質は学者と政治家と官僚と電力会社だけが知っていればいい」そんな洞察を試みた方も多かったでしょう。当然、報道機関も同じように感じていたはずです。しかし「ウラ」を取るにしても研究者の意見は種々雑多だし、放射能汚染する現場に飛び込むこともできない。本質を語ってもらうべき政治家や当事者もよくわかっていない。
 つまり、情報発信が八方ふさがりだったわけです。こんな状態が数カ月続きました。国民が関係者の発言を素直に聞き、信じるわけはありません。


 情報発信にアカデミズム、政治、行政それぞれでバイアスを掛けてしまった結果です。そして国民はいまだに、その弊害に振り回されています。
 国民が、発信されたものを全面的に信じることを止めた瞬間、デマや煽情的な情報発信が市民権を得たワケです。その不信感が多くの問題を生んでいると思っています。また、この状態が正されることが出来た時に始めて復興に国民全体の理解が得られるはずとも思うのです。
〈続く〉


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