∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

体罰事件

【教育の一環?】


 大阪の市立高校での体罰事件が盛んに報道されています。体罰を与えた教諭のコメントによると強くなるために「気合いを入れるための教育の一環」として殴ったとのこと。そして教育委員会は相変わらず「見て見ぬフリ」や「好意的な受け止め方」をしています。


 今回の体罰事件もそうですが、体育会系の“指導”に腕力は必要不可欠、教える教諭やコーチ、先輩が腕力による罰を与えることで強くなる」という暗黙の了解や慣習、習慣があると思うのです。そんな慣習のうえにたった行為が度を超した結果が今回の体罰事件ではないでしょうか。
 たとえばプロ・スポーツやオリンピック・クラスにも「新人の頃は先輩からよく殴られた。今はいい思い出だし、あれがなければ今の自分はない」と言う選手がいます。つまり腕力を振るうほうも振るわれる方も当然のことと受け止めているのではないでしょうか。
 こんな“暴力容認思想”がなくならない限り、体罰事件は繰り返されると思います。なにしろ「殴ってもらってありがとう」とか「先輩の奴隷になれることが組織の一員であることの証明」という発想が当事者にあるのですから。
 体罰イコール暴力、イコール犯罪という意識が根付かない限りこんな行為はなくならないでしょう。しかし、体罰が当たり前と考える指導者が腕力に訴えずとも選手に自覚を促す方法論を見つけることができるでしょうか。もし体罰以外の方法論を持っていれば、あるいは考えようとするならばこんな事件は起こらないのですから。
 こんなことを言うと、当事者の方からは「現場を知らないのに偉そうなことを言うな。張り倒すぞ」という言葉が返ってきそうです。僕にはこんなコメントを言う方は“その程度の危険な人間”としか見做すことができません。


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