∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

始まりました

【祭の季節】


 今日と明日は神田祭。東北大震災の後、控えていた神輿もようやく登場して、やっと元通りの神田祭に戻りました。
 この祭礼が先陣を切って下町に「祭の季節」がやってきます。
 この関東総鎮守の祭礼を見ながら三社神社や下谷神社、鳥越神社をはじめとした多くの神社の氏子が「わが祭は……」と自らが祭の主人公になる日を手ぐすねひいて待っているのが目に見えるようです。


 僕と同じように「昔は神輿を担いでいた」という初老の男性と話をしたことがありました。
 「祭は神輿を担がないと祭じゃないんだよね」。「神輿を見るだけの祭は行くだけで寂しさが込み上げてくるので、担がなくなってからは行ってないんだ」。
 この方の思い、僕も痛いほど判ります。下町の祭は見るためのものではなく、参加するためのもの。町会ごとに違う半纏に袖を通して、パッチと祭足袋で足元を決めて、声を枯らし、汗だくになりながら担ぐ神輿。この魅力を知ってしまった人間にとって神輿が通り過ぎていくのを見ていると「肩を入れたいけど、オレは担ぎ手じゃないからな……」という寂しさと悔しさと懐かしさが入り混じった複雑な感情が自分の中で渦巻いてしまうものなんです。
 ほかの地域の祭なら「オオ、頑張ってるなあ」と冷静に見ていられるんですが、かつて自分が参加していた祭の神輿となると、その感情は最大級に。


 下町に住む人間にとって神輿は、いわば生活全般を蔽う精神性の原点でもあり、核でもあり、故郷でもあると確信しています。
 氏神様が乗り移った神輿を担げる幸せは、担がなくなった時に初めて判るものかもしれません。