∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 軍艦島の今を見て ≡≡

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▲『穀雨』‥光り輝き、雨が芽吹きのきっかけに

記憶の片隅に仕舞い込んでいた
古き思い出が蘇った日

 今日の夕方、テレビ朝日の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』で「軍艦島の非公開エリアに潜入する」というロケを見ていて、図らずも若き日の自分を思い出した。

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 本題に入る前に軍艦島についてと私の関わり方について話しておこう。

端島炭鉱】
 明治16年(1883年)長崎沖の小さな島、端島で石炭を掘削し始めた。その後富国強兵策のもと、端島の石炭生産量も増え、昭和初期には島の大半を炭鉱に、残った場所を従業員とその家族が日常生活を営む“炭鉱の島”が出来上がった。
 島の遠景が軍艦のように見えることから軍艦島と言われるようになったのは昭和10年代のことだと言われている。
 その後昭和49年(1974年)に閉山して全島民が去り、それ以来、平成27年(2015年)に世界文化遺産として登録されるまでは無許可で魚釣りに訪れる少数の人以外人の気配がしない島だった。
 あまり語られることはないが、端島には炭鉱の島以外に日本の高層ビル建設の実験場という側面も併せ持っている。“鉄筋”の技術がなかった頃には“木筋”で高層ビルを作り、閉山当時も現役の住宅(6~7階建て)として使用されていた。また、大正5年(1916年)には鉄筋建築(ラーメン構造)の実証実験として日本で最初の鉄筋コンクリート作りの高層ビルも建てられた。

【卒業制作】
 大学で写真を学んでいた私は3年生の時に田中先生から「東京電機大学のチームが夏休みに軍艦島で建築史のフィールドサーベイをするのだが、そこに同行して撮影してもいいという連絡があった。行ってみないか」というお誘いを受けた。昭和52年(1977年)のことである
 写真家の奈良原一高氏が軍艦島に居を構えながら撮影した『王国』に感銘を受けていた私は悩むことなくその場で参加を申し出た。
 お盆の前後10日間ほどの予定。宿泊は端島同様の炭鉱島だった高島の公民館。決まった時間に漁船で送迎してもらい、入島時と昼休憩、離島時には点呼を行う。食事は交代で作る。靴は靴底とつま先にスチール板が入った安全靴。出発前に決まっていたのはこの程度だったと記憶している。ちなみに撮影は35ミリカメラで行なった。
 年が変わり4年生になった時、再度先生から「今年も同行できるようになったがどうする」という話があり、即座に「行きます。卒業制作にします。今年はブローニーフィルムコダック・プラスX・120)を使って2眼レフで撮ります」と応え、前年同様のレギュレーションで参加することになった。その時に撮った写真の中から30枚を選び写真集を作り、卒業制作にした。
 3年生の時は「閉山後3年経った人の気配が消えた島で人口物を撮る」つもりだったが、撮影を続けるうちに人の“人の残り香”や“生きた証”が残っていることに気づき、途中から被写体を変えていた私にとって二度目の撮影チャンスは願ってもないこと。建築写真というよりも“人が写っていない生活風景”になったのではと今でも思っている。

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 私にとって軍艦島は青春の1ページを飾った忘れがたき島である。

 しかし今、手元にはその時の写真集はない。ネガもない。大学が保存してくれていれば原本が残っているかもしれないが、少なくとも自分用の控えにしていたものはない。人生の紆余曲折のなかですべて捨ててしまったのだ。

 まさに「人は何かを捨てながら齢を重ね、残るのは記憶ばかり」の典型例である。あの時から40数年、記憶とともに記録も残しておくべきだったと気づいた。

 私は常に前向きであれと自分の人生の軌跡を表に出すことに抵抗感を感じ、記憶自体を封印しようとしてきた。今日のように“記憶の引き出しを開けるカギ”と出会った時には突然思い出がとめどなく湧き出してくるものということさえ忘れていた。

 ひょっとすると今夜のテレビ番組は「思い出に酔ってはいけないが、時には湧き出す記憶に身を委ねるのもいいものだ」と私に気づかせるものだったのかもしれない。

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