∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 「常に時代は変わりゆく」だけでいいのか ≡≡

アサヒカメラ休刊

 先日『アサヒカメラ』が今年の6月19日号をもって休刊するというニュースを目にしました。

 『アサヒカメラ』『カメラ毎日』『日本カメラ』、そして僕にとっては歴史上に位置づけられている『光画』……。

 中学時代に写真の面白さを知り、高校に入って撮ることと観ること、考えることなど写真を通して写真論や映像論、ひいては芸術論まで興味を抱くようになり、ついに大学では写真を中心にした映像表現全般を専攻するようになった僕にとってカメラ雑誌(正確には写真雑誌ですが)は、未知の世界へのゲートウェイでした。
 特に高校時代は毎月発行されるカメラ雑誌を観て、写真の奥深さや楽しさに触れていたように記憶しています。

 まだ発行し続けている雑誌には失礼な物言いになりますが、写真雑誌にも終焉の時がやってきたのかもしれません。編集部の説明では広告出稿が激減したために発行が維持できなくなったとのことですが、それだけでしょうか。
 僕には“写真”の位置づけそのものが変わり、興味をもつ人が極端に少なくなった、つまり、読者離れが根本的な原因だと思えてならないのです。


 現代はスマホさえあれば誰でも撮影出来る時代です。しかも、画像アプリを使えば従来の写真術では不可能に近かった画像まで作成出来ます。ある意味、テクノロジーが急激に写真の大衆化と平準化を果たしたといってもいいのではないでしょうか。
 それは、それぞれの写真家がもっていた感性や職人ワザ、あるいは努力や経験値の積み重ねなどをそれを観る者自体が探る必要性が感じなくなったことを意味します。
 その結果、写真表現の裏に隠されていた思想や哲学などに思索を巡らすこともなくなったのかもしれません。
 いまや写真(あるいは映像)は、刹那的に流される映像情報だったり、個々人の表現欲求を満たすためのツールになったようです。

 生業とは言わなくとも、写真に寄り添っている人間にとって写真とはどういう存在のものなのかを改めて、深く考える必要があると確信しています。
 たとえば「写真する」という表現用語をどう捉えるかといった命題から考察していくのもいいかもしれません。

 今こそ、写真(画像)の大衆化を否定することなく真摯に受け入れたうえで、思想や哲学を窺い知る手段としての写真表現とは何かを考える時なのかもしれません。

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