∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

1995年1月20日

地震が神戸を襲ってから3日目、明日に掛けて大雨が降るという天気予報が出た。
地震の恐ろしさは知らなくても、水害の恐ろしさは身を持って体験してきた神戸の人間にとって大雨が降るという予報には敏感に反応する。すぐ母に「明日、仕事の調整をして、明後日できるだけ早くそちらに行く。それまでは隣に住む親戚と祖母の5人で小学校に避難させてもらうように。それで一緒に東京に避難しよう」と連絡を入れた。
次の日、仕事の引継ぎを済ませた後、水のいらないシャンプーやウエットティッシュ、マスク、キャンディなどを買い込み、持っている中で一番大きなダッフルバッグに詰め込んで準備を済ませた。
そして地震から5日目、朝6時の新幹線で神戸に向かうが、新大阪までしか新幹線では行くことができない。新大阪から大阪まで行き、オープン前の梅田の地下街で巨大なフレームザックを手に入れ、駅弁や寿司などを買い込み、今度はJRの各駅停車に乗って西宮駅に着く。
キビキビと的確な誘導をしてくれるJR職員の案内に沿ってバス乗り場まで歩く。付近の商店街はひどいダメージを受けているようで、割れ目が走った歩道の脇にはガラスや壁の一部などが積み上げられていた。神社の鳥居も崩れ落ちていた。
普段なら5〜6分で行けるところを15分以上掛かてバス乗り場に到着。
なんと三宮行きのバスが一度に6台出発するというのだが、それでも乗り込むまでに2時間以上は掛るという。近くの公園にできた列の最後尾に並び乗り込める時を待つ。寒い日だったが、雨も止み晴れてくれたのがたったひとつの幸運だった。
そして2時間半待ってバスに乗り込んだ。
国道2号線に設けられたバスと警察、消防用の専用車線をゆっくりと進んでいく。ほかの3車線は自衛隊の輸送車や特別のシールを付けた物資搬送用のトラックで大渋滞している。
夙川あたりでは同じ方向に倒れた電柱の列に驚き、芦屋では国道側に傾き今にも倒れそうになった新築売り出し中のマンションに出会い、東灘では酒造メーカーのレンガ作りの建物が崩れ落ちそうになっているのを発見した後、ようやく、ガラスがすべて割れ落ちたビルや中央部が崩れ落ちたデパートのある三宮に到着した。
ここから母たちが避難している小学校までは徒歩で行くことになる。
途中、一人暮らしをしているお嬢さんと連絡が取れないのでここまで来たが、住所しか分からないため歩く道を教えて欲しいという男性と出会い、一緒に歩き始めるが10分もしない間に周囲の光景に圧倒され、お互い無言で歩くことになった。
元町あたりのアスファルトが三角形に折れ50センチほどの山になっている歩道や、県庁近くのガラスだらけで車道しか通れない所を通りながら、火事の後の匂いが充満している新開地のトンネル近くまでたどり着き、一緒に歩いてきた男性と別れを告げた。
ガムテープで崩れそうな壁を繋ぎ、ろうそくの火で照らしながらも営業している店が数軒しかないという東山市場や湊川市場を通り、ようやく小学校に着いた。
ここまで約10時間。すでに夕方近くになっていた。
母たちの居場所を探したところ、図書館だという。さっそく行ってみると本棚の横で4人がふとんに座っているのを発見。被害の一部を見ながら来たためか、正直な所、出会った嬉しさよりも、自分が辿りつけたことでホッとして、気が抜けてしまいそうだった。何から話をすればいいのか分からないくらいに自分が混乱していたため、避難している4人のほうが意識がしっかりしているような気持ちになる。
[本日で連続0072日]