∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

1995年1月21日

地震の日から6日目。僕は、ルール違反を承知の上で寝かせてもらった小学校で朝を迎えた。大阪で買った駅弁は昨日中に食べてしまったので、やむを得ず、朝ごはんまでいただくことになった。塩分摂取制限があっても食べられる塩気も具もないおにぎりとカップ麺、そして牛乳。避難ではないので遠慮がないわけではないが、昨日ひたすら歩いたためか、無性にお腹が空いたため、ついつい列に並び、配られるものをいただいてしまった。
食べ終わり、これからどうしたものか話しをしていたら、廻りの人たちが静かに立ち上がりペットボトルを持って外に出て行く。母たちに促され僕も同じように外に出た。自衛隊による給水である。整然と列に並んでいる人たちの後ろに付いて順番を待つ。
この時、確信した。ここでは、なにもかも静かに、廻りの人たちの邪魔にならないようにが自然発生的に生まれたルールなのだ。
そして気づいたのが、車の音など都会に付きものの音がまったく聞こえないことと、風に乗ってただよってくる匂いが火事が鎮火したときの独特のものだということ。
そんな初めての感覚を感じながら、目の前にいる自衛隊給水車を見ていたら、昨日バスの中から見えた給水車と同じような車両が目の前にいて、全員に水を配ってくれているのだ。
今思うと、何週間か経って母が言った言葉が僕の自衛隊感までも変えてしまったことを思い出す。「軍隊はいやだけど、今回は自衛隊を見直した。あの人たちの中にも地震にあった人がいるはずなのに、自分やその家族のことを後回しにして、こんなに助けてもらえるとは。ありがたい」と。
水をもらった後、小学校に貼り出された告知以外になにかないか探しに区役所に行ってみる。
階段の踊り場にも避難してきた人たちがいる。
気を付けて階段を上り、グルッと見渡すと、ここにも被災者のために働く人たちがいた。汚れた服。ネトネトした感じの髪の毛。目の下にはクマ。フラフラになりながらも仕事をしている区役所の職員たち。自分たちも被災し、自分の家や家族の面倒を見ていたいハズの彼らが黙々と働いているのだ。
なにも言えなかった。なぜか悲しくなってきて、涙が出てくるのが分かる。心のなかで「ありがとう、がんばってください」と叫びながら区役所を出た。
一部の「足で稼がず、先入観を優先させた頭でっかちの取材記者」が放った行政の対応が悪いという非難に近い質問がいかに馬鹿げたものだったか。現実がここにある。誰もが自分のことよりも廻りの人たちを尊重しないと、自分の存在そのものが失われてしまいそうな世界がここに出現してしまったのだ。みんなが苦しいのだ。みんなが泣きたいのだ。叫びたいのだ。逃げたいのだ。しかし、みんな、ここにいる。ここで生きているのだ。助け合わなければ生きていけない世界が出現したのだ。
大都市に起こる大災害はすべての既成ルールを変えてしまう。一瞬にして想像できない世界に放りこまれてしまった人たち。僕は自分がいかにイージーな考えでここに来たのか、思い知ったような気がした。
[本日で連続0073日]