∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

1995年1月22日

地震から7日目。母を連れて横浜に住む妹の家に行くことになった。
大小合わせてバッグは6個。ひとつは母が持つことにしたが、あとの5個は僕が持つ。大きなフレームザックを担ぎ、巨大なダッフルバッグ2個を左右の袈裟懸けにし、小さめのダッフルバッグを両手で持つ。今、考えるとトンデモナイ旅支度だが、当時は宅配便も使えなかったため、当然のように思えた。
親戚に挨拶をして歩き始めるが、バス通りに出たところで偶然タクシーに乗ることができた。僕が「乗れるとは思っていませんでした」と言うと運転手さんが「地震以降初めての乗車です。これまで家の片付けをしてました」と話してくれた。「ご家族は?」と聞くと「全員無事でした」とのこと。
三宮駅まで」というと、「地震後、初めてなのでどの道が通れるのか確認出来てません。運転手同士の情報交換も出来ていないので、行けるところまで行かせてください」とのこと。こんな経験は初めてだったが、それが当たり前の会話として成り立っていたのだ。運転手さんだって同じだろう。
JRの高架が落ちているということは知っていたので、迂回して元町の山側の路地を走るが、ビルが斜めに倒れ、ガレキが道を塞いでいるところにぶつかった。「ここまでで結構です。あとは歩きます」「申し訳ない。ここまで酷いとは思いませんでした。がんばってください」「ありがとう。本当に助かりました。頑張ってください」という会話でタクシーを降り、歩き始めた。そこから三宮までは通常なら10〜15分もあれば行ける距離。ここまでくれば大丈夫と気楽に考えていたのだが、道が割れ、ガラスやガレキが散乱し、ビルや電柱が倒れそうになり、アーケードが崩れ、何もかもグチャグチャになった街を歩くのがこんなに辛いものだとは思わなかった。結局1時間以上掛かってしまった。
ようやく三宮まで来た時。途中階が潰れてしまった交通センタービルを見ながら歩いていた僕は、ダッフルバッグの重みで重心が狂い、まるで棒のように身体がまっすぐなまま前に倒れてしまった。「大丈夫ですか」周囲を歩いていた人たちが皆さん声を掛けてくれる。手を差し出してくれる方もいる。全員真剣。声だけでなく、心まで伝わって来るようで涙が出てくる。
起き上がり、バス待ちの列の最後尾に並ぶ。来た時と同じように6台が一度に出発すると言う。歩きながら新横浜までの切符を買いJRのバスに乗る。JR九州のバスだった。国道2号線を走り、西宮まで。そこからJRの普通電車で新大阪まで行くことになる。
普通電車に乗っていて淀川を越えた時、街の風景が一変するのを感じた。地震の影響がなかった所まで来たのだ。
僕と母は幸運にも神戸を離れることが出来たが、親戚をはじめとして、神戸で生き続ける人たちに、申し訳なさと後ろめたさを感じながらも、脱出出来たことでホッとしてしまった。「頑張ってください。ありがとう」。この言葉を心の中で何度も反芻している自分に気付き、複雑な気持ちになったことを覚えている。
[本日で連続0074日]