∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

1995年1月23日

母とともに大きな荷物を持って新大阪に着く。
地震の影響などまったく無い都会のターミナルの中で、僕たちは廻りの人たちとの違いを肌で感じることになる。母は、埃まみれの神戸の街で一週間も風呂に入っていないし、僕は身体中にバッグをぶら下げてヨタヨタ歩いているし。きっと不安と緊張に満ちた顔つきだったと思う。
それでも少しずつ緊張が溶けていき、一種の開放感のようなものを感じるようになった。人混みが発する音、熱気、明かり、匂い。すべてが安心の証のように身体を包みこんでくれるのが分かる。
新横浜に一番早く着く列車に乗り込み、ホッとする。名古屋を過ぎた頃からしばらく眠り、気がつくと三島駅で後続列車の通過待ちで6分停車しているところだった。
フワッ。「キャー。地震やー」「大丈夫、地震と違う。電車が風圧で揺れただけや」
母は後続列車が通り過ぎた時の風圧で揺れたのを地震と間違えた。少しでも揺れると地震の記憶が思い出されるのだろう。身体がガタガタと震えている。なんとか説明したためか、徐々に落ち着きを取り戻したが、呆然としたような顔つきで前を向いたまま黙っている。
新横浜に着き、妹の家に向かおうとした時、母が「このままの格好で行くのはイヤだ」と言い出した。ホテルに泊まり、まずは風呂に入りたいという。
二件目のホテルで部屋が見つかり、チェックイン。荷物を降ろし、さっそく風呂に入る。
二人とも風呂から上がり、母を見ると埃も取れ、髪の毛も落ち着いている。きっと僕もそうだったのだろう。すでに11時を過ぎていた。ホテルのバーでつまみをいくつも頼み、冷たいものを飲み、ようやくホッとしたところで疲れがドッと出てきた。長い一日が終りを告げようとしている。
次の日の朝、精神的にはまだ緊張したままだが、体力的には少し回復したのが分かる。ここまで、はっきりと体調が分かるなんて。これも脱出の影響だろうか。
朝食を済ませ、妹の家に。母は孫たちにも迎えられホッとしたのだろう。それまでと顔つきが変わり、穏やかになってきた。
しかし、ここまでの想像を絶するような体験を話すことなく、辛かった思い出を心に仕舞い込み、時々発散することになるのだろうと僕は確信していた。
あの言葉では表せない恐怖の体験は、体験しなかった人に話しても理解されないだろう。もっと時間が経ち、数多くの体験者が大きな声で語れるようにならなければ。表面的な現実は報道が語ってくれるだろう。しかし、被災した百数十万人それぞれの心情は、心のなかに封印したままで終わるだろう。
きっと、みんなが語るのは「苦しみを乗り越えて、みんなで復興しよう」ということだけ。それしか、生きていくバイタリティが生まれないくらいの体験をした人たち。涙をこらえ、叫びたいのを我慢して、少しでもみんなが元気になれるようにと思うことしか、生きる目標が見つけられなかった、と言ってもいいと思う。
地震から16年。神戸は統計的にも表面的にも復興したように見えるが、未だに完全には復興していない。一瞬にして家族を失った人たち。生活の糧を壊され、一から出直した人たち。賑やかさを取り戻した繁華街を歩く人たち。その笑顔の下に封印した苦しみの記憶が本当に癒えるのはいつのことだろう。
[本日で連続0075日]