∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

2011年1月22日

あれから16年。祖母は数十日で他界した。犠牲者の中には入っていない。自然死という診断だったが、僕は97歳の祖母に地震が与えたダメージが大きすぎたのだと今でも信じている。そして、母も地震の後、数年で他界した。地震さえなければ、もう少し楽しく生きていたと思うのだが……。
地震の後、各地で大規模都市災害に対応した訓練が頻繁に行われるようになった。ライフラインの強化や公共交通網の補強も到る所で行われている。
しかし、僕はどうしてもあの訓練にはついていけない。どうしても、「サワリだけ」という気がしてならないのだ。
家族が目の前の潰れた家の中で生き埋めのまま、亡くなっていくのを受け入れることができるのだろうか。ガラスやガレキが散乱したアスファルトの道を歩くことがどれだけ神経をすり減らすことか理解できるのだろうか。倒れそうになった大きなビルの横を不安を抱えながら歩くことが、あの訓練でイメージできるのだろうか。母がそうだったように、火事の後の独特の匂いの中を友人宅を訪ねたはいいけれど、残っていたのは玄関のタイルだけ、友人の生死も避難先も分からないというような現実を受け入れることができるだろうか。恐怖と疲労のなかで電話が掛からず「声の励まし」も受けられない状況に耐えられるだろうか。食べ物も飲み物もない何十時間や、何日間もホコリまみれのまま、固い床の上で眠らなければならない状況を受け入れられるだろうか。
自分も被災者でありながら、家族を置いて住民のために働く人たちも多かった。交通機関が復旧するまでの数カ月間、住んでいる所から仕事場まで毎日片道2時間歩いて通った先輩もいた。人生にこんなことが降りかかろうとは誰ひとり想像していなかったのに、現実は厳しい極限状態を突きつけた。
母を非難させた後も、何度か神戸にひとりで行っていた僕の想像だが、地震直後から地震を襲った地域の携帯電話の保有率は急激に上がったと感じている。というのはバス待ちの列の中で電話を掛けている人が行く度に増えていったからだ。声で繋がることで安心したり、元気になったりするものか、僕はあの時、初めて知った。
大規模都市災害のような地獄の中では「全員が手を繋ぎ、ケアしながらも希望を失わず、前向きに生きていくこと」が最も大切なことだと僕は確信している。「我先に」とか「恨みや妬み」や「お金の力で」という生き方は通じない。必ず、その人自身に跳ね返ってくるはずだ。
今は当時と違い、ツイッターフェイスブックなどを含むインターネット通信が当たり前の時代。もちろん大規模都市災害に対する考え方も大きく変わった。どれだけ有益な情報を共有できるだろう。どれだけ誰かが生きて行くことを手助けできるだろう。同時に、どれだけ有害な風説やデマを防ぐことができるだろう。
直接被災したわけではないが、あの時の体験は僕の生き方自体にも影響を与えているはずだ。もう一度あんな状態に直面した時、自分に何が出来るか、実現可能な方策をじっくりと考えていきたい。
[本日で連続0076日]