∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

時代のフルイにかけられて残ったもの

◇今朝、J-Waveを聞いていたら「時代のフルイにかけられて残ったもの」というフレーズが聞こえてきた。ちょうど、ワサワサしていたときで、きちんと聴いていなかったため、どなたのコメントかも分からなかったのだが、なぜか耳に残って一日中気になっていた。
 近代文学の話だった。明治以降、数多くの文学作品が発表されてきた。そのなかで、未だに読み継がれているものには「時代のフルイにかけられて……」というコメントで、その時は、時の流れが良い作品だけを残し、磨き上げられた文学の世界を作るということだと理解した。
◇しかし、よく考えてみると、すべてのことにこの「時代のフルイにかける」という言葉が当てはまるように思えてきた。
 美術や音楽、文学といった芸術分野だけでなく、知識の蓄積で構築されていると考えれれている科学や経済学など学問の分野にも通用するのではないか。いや、待てよ。人それぞれの人生の中でもフルイにかけてきたものが多く存在するじゃないか。自分自身がフルイにかけられて、網目から抜け落ちけしまったことだって多いじゃないか。そんなことを考え始めると、少しだけ人生論的な思考になってしまった。
◇自分から。人から。人は皆、それぞれのフルイを持っている。もちろん社会にも法律や規則といった大きなフルイの網目が存在する。企業となれば、非常に細かく「規則」という名前の網目がある。すべての人が、その中でフルイに掛けられているわけだ。
 明らかにフルイの網目から抜け落ちたものはほとんどが「そうなる運命」にあったと思えるが、残ったものがすべて素晴らしいものかどうかの判断はまったく別物のような気がする。
 自らしがみついて残っているものや、何かの力が働いてフルイの側面にへばりついているものも多いのではないだろうか。そんな残り物ほど、ここにいるのが当然という顔をしていないだろうか。逆に、それがために網目から無理矢理抜け落とされてしまったものもあるだろう。
◇網目が大きければふるい落とされるものは多い。側面がザラザラしているとへばりついて残るものも多い。中には自らフルイの側面にへばりつくために飛び込んでくるものもいる。なかには、他人をふるい落として自分は残るという者もいるだろう。なかには、網目から落ちないように他人の蓄えを自分に中に取り込み残ろうとするものもいるだろう。
◇どうも、難しい話になってしまった。なんだか、自分が悲劇の主人公になりそうだが、決してそんなことはない。素敵な人生を送っている。
 これからも自分に正直にイキイキと生きよう。『それが人生』。ラ・ヴィアンヴェイルである。
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