∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

近頃、天気が。

◇雨音が激しくなってきた。風も強いようだ。今、僕は家の中。窓の外とは隔絶されて、横目でテレビを見ながら、のんびりとブログを書こうとしている。
 あの火事の後、僕は強い雨が降ってくるだけで「家」のありがたみを感じるようになってしまったのだろうか。自分でもおかしいと思うけれど、雨の日に家でのんびりできることの素晴らしさを感じるなんて、やはり、少しトラウマがあるのかも。以前なら「ああ雨か」程度にしか感じなかったことなのに。
◇この二週間ほど、晴れていたと思ったら、ビルとビルの間を黒い雨雲がサーと近づき、暗くなる。そしてポツポツ、ザーと雨が降ってくることが多いように感じているのは僕だけだろうか。
 そういう時ほど、傘もないのに徒歩で移動中ということが多いというのも僕だけのことだろうか。厚手のコットンで出来たフィールドコートを通して雨が染み込み、寒くなるし、服は重たくなるし、頭からはポタポタと雨粒が落ちてくるし、という経験をしているのは僕だけだろうか。
◇15年くらい前まで、僕は雨に打たれることは苦ではなかった。むしろ、そんな時こそ顔を挙げて悠々と歩いていた。それがいつの間にか頭を下げ、小走りで雨宿りできる所まで行くようになってしまった。
アメリカの田舎町で雨に会うと、よほどの豪雨でない限り、多くの人が傘がなくても堂々と歩いている。これが考え方の違いなんだろうなと感じたこともあった。傘を持っていないのかな、なんてことを考えてしまったことさえある。
 彼らにとって急な雨に出会ったら「濡れる時は濡れればいいじゃないか」で済ませるらしい。
◇こんな時、避難所で過ごしている人たちはどう感じているのだろう。自衛隊は? 復旧作業に携わる人たちは? ボランティアは? 
 こんなことを思ってしまうのは16年ぶり。極度の我慢を強いられている時、人間はセンシティブな感情を心の奥に閉じ込めようとする。つまり、ちょっとした天候の変化まで気を遣えるほどの余裕はなくなり、無視しようとする。そして、それが新たなストレスを形成する。
 つまり、「雨か、早くやまないかな」といったような、当たり前の感情が出てくるようにならないと、自分なりの生活を取り戻したとは言えない。
 僕はそう信じている。
◇被災した人たちが、自然との共生を見つめることができるようになるまで長い道のりになりそうだが、それでも、いつか、心の余裕を取り戻し、穏やかに「雨音」を聞いていられるようになる。
 そして、大げさに考えると、その時、日本いや世界はどう変わっているのだろう。
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