∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

一人の傍観者として

【ずっとそうだった】


 選挙権を持ってからはや数十年。受験時代も含めればプラス2年。僕はずっと政治に対しては傍観者だった。
 もちろん、必ず投票には行く。人並みに評価もしてきた。それなりに期待する時もあった。
 ただ、年代的に60年代の学生運動の時代にはまだ若すぎて、かろうじて反戦歌を歌うくらい。直接、政治と向き合ったことはない。いわゆる「ノンポリ」や「日和見」とも少し違う。
 特に、社会人になってからは、時として批判することも怒ることもあったが、それでも最後には落ち着くべきところに落ち着き、生活向上が図られるものと信じていた。いや、信じるしかなかったと言った方が正しいかもしれない。
 もちろん、行政にいたっては、最高の頭脳集団が真摯に考え、実行しているものと思っていた。内部で権力闘争があってもそれは行政上、大げさには表に出ないものと思っていた。


【ある人いわく】


 ある人は「行動を起こさずに考えたり言ったりしても、それは傍観者でしかない」という。
 

 今、何故自分が物事をもっと批判的に見て、おかしなことにはおかしいと声を上げてこなかったのかと深く反省している。
 もっとも、SNSが登場するまでは、政治にしても行政にしても、決められた事が一方的に伝達され、知らない間に実施されることが当たり前だったという事情も考慮に入れておきたいが、それにしても自己反省すべき点は非常に多いと感じている。
 そして、彼らがここまで「自己愛」と「偏見」に満ちていることも想定外だった。言うべきことも自分と自分が属する組織にダメージが少ないタイミングをはかって発表する。真実はできるだけ隠し、耳触りのいいコメントだけを発表して「おさめる」ことだけを考える。ここまで「上から目線」の人間たちだとは思ってもみなかった。


 単純に信じ、真実を知らず、時に知的ゲームのように批判をしてきた。


 これこそ、傍観者の印である。心の底から悔しくて情けない思いが湧きあがってくる。
 報道されることを自分なりに咀嚼はするが、結局、受け入れるだけで行動に移すことはなかった。かと言って、数十年前の学生運動の闘士たちの中で本当に自分を信じ体制にぶつかっていった人たちのような過激な行動も納得できない。
 その上に、情けないことだが、批判というよりも皮肉や批評ばかりが口をついて出てくる。どうしても行動に出られないのだ。行動する術(すべ)も熟知しているとは言い難い。
 自分で言うのもいかがなものと思うが、この僕の心情、なんとももどかしいくて情けない。


【まずはSNSを舞台にするか】


 妙に我慢することもない。皮肉でもいい。正論とずれていても、それが自分が正しいと思うことであれば良しとしよう。単なる傍観者を卒業して少しは動き、少しは世論の仲間入りをしよう。
 今のところ、極めて消極的な関わり合いでしかないが、SNSでコメントすることくらいしか浮かばない。それでも少しずつ前進する意欲だけは持ち続けるように心掛けよう。


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