【亡くなって30数年】
僕の父は、僕が大学を卒業し、ある出版社に入社した年の夏に亡くなった。
食道静脈榴破裂というのが直接の死因だったが、10年近く続けていた単身赴任で酒量も増え、生活のバランスも崩していたのではないかと想像している。
しかしそれは、父の仕事上の目標を達成するためのバイタリティを維持するためにも必要だったのだろう。
中学生の頃から父と一緒に暮らした事のない僕にとって「父の日」はせいぜい電話をするくらいの存在。特に大学に入り、一人で暮らし始めてからは、正月に神戸の実家で出会うくらい。
それでも僕にとって父は極めて大きな存在だった。
【遭難かと子供心にも不安が走った時】
小学生の頃、よく父と釣りに行った。神戸港の新港第8埠頭ではアジを。須磨浦海岸ではテンコチ、キス、ベラ、カレイなどを。当然のように釣った魚はその日の夕食になった。
そんな父が何故か六甲山に登ろうと言い出したことがある。もう40年以上前、今のように開発されていない自然のままの六甲山が残っていた時代である。
ところが、父も僕もいつも見慣れている六甲山をなめていた。水筒だけを持ち、運動靴で行った僕。地図も何も持っていなかった父。なんでもない裏山に行くような気分だったのだが、それがいけなかった。
細い山道を下って行く途中で道がなくなった。ウロウロとした結果、来た道に戻ろうとしても戻れなくなったのだ。いつも冷静な父が、切羽詰まったような真剣な顔つきで脱出しようと道を探し始め、僕にも迷ったとか遭難しそうとか言ったような記憶もある。
そんな父を見ていて僕は、目の前に広がる神戸港や市街地を見て、あそこまで飛んで行ければ家に帰れるのになんてことまで思っている間はまだよかった。途中でイノシシが走って行くのを見たり、している間に本当に帰れるのか不安になり、子供ながら緊張してしまったのを覚えている。
どこをどう歩いたのか分からないが、山を下れば必ず市街地に出るという父の言葉に勇気付けられて、滑り落ちそうな斜面をゆっくりと降りて行き、かなり歩いたところでようやく道に出た。
やった。これで家に帰れる。その時はそうとしか思わなかったのだが、自分が父親になってから、あの状況であんなに冷静にいられるだろうかと、自問自答してみたが、僕ならもっと焦っていただろうとしか思えなかった。
【父に輸血をした夜】
父が福岡で病に倒れ、家族全員が病院に集まった時、医師から「あなたの血液型は?」と聞かれ検査を受け、同じ血液型であることが確定し輸血をすることがすぐに決まった。
たった200ccでいいという。輸血がどんなものなのかを知らなかった僕は「そうですか」としか言えずそのまま血液を取ってもらい輸血したのだが、なんと、みるみるうちに父の顔色が明るくなったのだ。それまでの青黒い「いかにも重病人」という顔色に血が通ったとでも言えばいいのだろうか。 血液がこんなに強い生命力を秘めたものということを初めて知ったと同時に、これでよくなってくれという思いが強くなったのを覚えている。
結局、その後、回復することもなく父は亡くなった。しかし、たとえ一時であっても、父の病状が回復したというだけで満足だった。その時は、まだ父が亡くなったという実感がなかったのかもしれない。
本当に悲しくなって泣いたのは霊安室を出て、父が暮らしていた社員寮に帰る途中だった。
夜明けの空に大きな虹が掛り、あの虹の橋を父は歩いているのだろうかと考えた瞬間、心の中にそれまで感じたことのない大きな空洞が空いたような気がして、急に悲しく辛くなってしまった。
今、考えると、あの輸血が親不孝なことばかりしてきた僕に出来た唯一の親孝行だったのかもしれない。
【今、父は母とともに】
僕が暮らす小さな家に大きめの仏壇がある。母が父の葬儀の後、手に入れたものである。その仏壇に父は母と一緒にいる。僕は毎日、線香をあげながら父と母が並んで記された位牌に手を合わせている。時には写真に向かって何かをつぶやく時もある。
今となっては、親不孝者の僕に出来る親孝行はこれしかない。
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