∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

もう止めませんか

【拒否反応】


 福島ナンバー車の拒否に始まって、京都、福岡、愛知。「福島」というだけで根拠もないのに拒否する傾向が続いています。
 当初、信頼できる正確な情報提供が成されてこなかったからでしょうか。それとも、どんなに情報が正しくても「イヤなものはイヤ。生理的に受け付けない」ということでしょうか。あるいは、拒否することで個人的な優越感を得るためでしょうか。ひょっとして、何事も拡大解釈してクレームを付けることで満足感を得てしまうタイプですか。
 どのような理由であっても「福島イコール放射能イコール拒否」という図式から卒業しませんか。この風潮が拡大していった時の日本がどのような世界になるのかを考えるだけで、うんざりしてしまいます。
 もう歴史の世界に収納されてしまったはずの「言われなき差別」の数々に、またひとつ、新たな差別が生まれてしまったように僕は感じています。
 もちろん、放射能に汚染されていることが明確なものなど根拠のあるものまで受け入れようというのではありません。しかし、汚染されているかどうかもはっきりしていない時点から拒否してしまうのは本能的なエゴイズムの塊にしか思えません。
 「安全と同情は違う」という発言もあったように聞いています。「セシウム君」という無分別極まりない言葉もありました。
 「大丈夫だと思いたいけれど、それでも怖い」という言葉には見えない不安さえ払拭されればという期待も含まれているように思えますが、これだって拡散して拡大していけば、「発表など信頼しない。すべて排除することしか自分とその家族の安全は守れない」ということになりかねません。
 おそらく、この何万倍もの冷たい言葉が日本中を飛び交っているのでしょう。そんな小さな言葉や対応の積み重ねが大きな差別観につながることをもう少し理解すれば、こんな状態にはならないはずなのにと思っているのは僕だけでしょうか。


【対策は】


 同時に、福島産のものを使ったイベントやビジネスを仕掛けようとしている人たちも、クレーマー対策の仕組みを作っているのかどうかも疑問に思っています。
 どんなことでもそうですが、新しいことを仕掛けると必ず拒否反応が出てきます。そこには人間が本能的に持つ「ありとあらゆる負の心情」が含まれているもの。それらを一つずつ丁寧に払拭していくことも開拓者には求められるものではないでしょうか。
 あまりにも問題が大きすぎてどうすればいいのか分からないという人も多いでしょう。でも、小さなことでもいいから、言われなき非難の発生を防ぐ手立てを探すのも重要ではないでしょうか。
 「分からないから隠そう」とか「取りあえず出してみよう」というようなあいまいな姿勢では、自ら差別を生んでしまうことになりかねません。データの裏付けのある「我々の作ったものはこんなに安全です」という目セージこそ大切なのでは。そんなメッセージの積み重ねこそフェアな世の中を再生させる重要なポイントだと確信しています。


 日本で教育を受けた人々の多くは放射能に関して正しい教育を受けてこなかったと言ってもいいでしょう。なにしろ原爆から原発へ、恐怖から安全へという一足飛びの教育しか受けてこなかったのですから。見えない恐怖への対応や安全性の裏に隠されたものといった本当に必要なものほど「隠されてきた」と思っています。
 悲しいけれど、せっかくの機会です。もう一度原子力放射能について冷静に知識を吸収しませんか。そして、大震災直後の心情を思い出しませんか。


[316/1000]