∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

年賀状の時期

【年賀状を書かない男】


 何を隠そう、僕はここ20年ほどごく僅かな方を除いて年賀状を書いた覚えがありません。特に、正月明けすぐに会い、すぐに仕事に取り掛かる仕事仲間には上下の区別なく出さずにきました。そのため、今では「年賀状を書かない男」という印象が出来てしまったようです。
 僕が年賀状を出すのは、しばらく会っていない大切な人たちばかり。特に「しばらく」という言葉がキーワードになっています。
 どうして書かなくなってしまったか。それは簡単な理由です。賀状で伝えるより話言葉で伝えたほうが伝わると思うから。そして、そのために時間を割くことが出来ないほど忙しい年が数年続き、失礼を繰り返してしまい、結果、引っ込みが付かなくなってしまったから。そしてもうひとつ。真心で出すことよりも「儀礼」や「体面」「体裁」という“形だけ”の賀状が多くなったから。この3点が大きな理由です。
 今では、会う予定もなく、電話をする予定もないけれど、想い出という繋がりだけは大切にしたいと思っている「心の友」たちだけに書くようになりました。


【明けましておめでとうございます】


 今年は年賀状を書くのにも、これまでに経験したことのない悩みが出現したようです。
 大震災があり、復興もままならない。原発は危険性をはらんだまま。放射能汚染にいたってはその事実さえも明確にならない、という時代背景のなか、「明けましておめでとうございます」という言葉を使わないほうがいいのではと危惧されている方が多いようです。
 どうしてでしょう。苦しかった一年が明けたのです。今年こそ明るく安全に過ごせる年になるように願いを込めてはいけないのでしょうか。むしろ、こんな時だからこそ使うべきではないでしょうか。


 大震災の後、何もかも遠慮してとばかり「自粛モード」が蔓延しました。あの当時はそれも考慮しなければいけない特殊な状況だったため、止むをえなかった点も多々ありました。
 しかし、年が明けるのです。除夜の鐘も点き終わるのです。どんなに状況が悪いままであっても、「悪いこと」は流れ去り「良きこと」が舞い降りる“区切りの時”という日本人の正月感を考えれば「めでたい」時が訪れたとすることこそ、新しい年を迎える意味が出てくると思うのです。
 巷でウワサされている、被災された方々に遠慮してなどという「究極の自粛」こそ、勇気を奮い起しながら前向きに生きていこうとしている皆さんにとって失礼に当たります。ひょっとして、「あけまして・・」と書くと被災した方々に送れないのでしょうか。この難局が通り過ぎるまでは年に一度の連絡も絶やしたり、古典的な「礼」の言葉も使わないほうがいいのでしょうか。
 被災した方を「悲惨な目に合ったかわいそうな人たち」と同情するよりも、「苦しい時を歩みながらも前向きに生きる、尊敬すべき人々。繋がりを絶やさないようにして一緒に進んでいこう」と考えたうえで言葉を選ぶ。たとえば「絆」や「飛翔」というような言葉なら僕も使うかもしれません。



 苦しい年が過ぎ、前向きな気持ちで迎える特別の年の始まりだからこそ、「明けまして・・」の言葉が意味を持つと確信しています。