∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

橋下問題の収束(2/2)

【報道人に求められるもの】


 人が人を言われなき論拠で“差別”することは、いつの時代、どこの国でも起こります。人間が集団で生きる動物である限り何らかの差別観が生まれるといってもいいでしょう。優越感、生活感、職業、自然現象など征服できない事象に対する生理的な拒否感……。差別は、ありとあらゆることが原因になり得るといっても過言ではない“人が背負った性”ということも出来ると思います。
 しかし、人間である限り事実に基づいた理性的判断が下せるはず。特に、多くの問題に触れ、その中から取捨選択を繰り返し、的確な表現で伝えることを職業としている報道関係者には率先して理性を働かせることが義務付けられているといってもいいと信じています。


 捏造や悪意ある言葉の積み重ねでテーマを煽情的に作り出して金銭的な利益を得ることが真の報道人に求められていることでしょうか。いかに煽情的であっても最低限守るべき取材方法や表現があるはずです。それさえ守っていれば、いかに抗議が来たとしても自信をもって反論ができます。
 多くの抗議団体と交渉を繰り返してきた朝日新聞社の子会社で多くのスタッフが朝日新聞社からの移籍で構成されている、つまり朝日新聞社の思想を受け継いでいると思われる週刊朝日。その製作陣はどのような思いでこの記事を世に出したのでしょう。どのような判断で数時間のうちにほかの報道機関に「お詫び」を出し、どのような判断で二日後に橋下氏に謝罪をし、どのような判断で五日後に編集長を更迭したのか。改めて知りたいところです。
 特に“即ベタ降り”になったその経緯は知りたいところです。編集部としては一番知られたくないところでしょうが。自信をもって送りだした掲載内容であれば、こうはならなかったと思っています。


 SNS全盛の今、言われなき差別が拡散されるスピードは想像以上になっています。そして一旦広がった言葉は取り返しがつきません。そんな今だからこそマスメディアには従来以上に慎重な対応が求められているはず。今回の騒動を機に改めてマスメディアにとって報道とは何かを考えるべきかもしれません。


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