∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

〓〓 『なぜ植物図鑑か』の時代を振り返る 〓〓

激しい潮流の渦の中で
日本の写真表現が変わった時代に
最先端を走り続けた写真家のシゴト

 1960年代末期から70年代前半、数人の写真家がデビューしたのをきっかけにして日本のファッション写真は劇的な変革が起こった。そしてその数年後、理念や概念を基軸にしながら心象風景を表現しようとする写真表現が大きな意味を持つようになった。私が高校生だった頃の話である。

 今日、私は東京国立近代美術館で開催されている『中平卓馬 火-氾濫』展を観に行った。先日、渋谷の松濤美術館で開催されている瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄4氏の写真にフォーカスした『「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容』展を観に行ったのに引き続いての写真展めぐりである。
 若かった頃の自分を再確認しようとしていたわけではないが、ノスタルジックな気持ちがなかったと言えばウソになる、そんな作品展である。

 会場に入ってまず驚いたのは若い世代がほとんどで、私と同世代らしき人間が皆無に近いという事実だった。
中平卓馬なのになぜ?」「写真史の検証か?」「そう言えば松濤美術館も若い世代ばかりだった」……。
 どうも、固定化した自分の常識が間違っていたようだ。おそらく若い世代にとっては新鮮な刺激なんだろう。

 火事で自宅もフイルムも印画紙も失ってしまった写真家兼編集者兼写真評論家だった中平卓馬にはオリジナル作品として残存しているものは少ない。そのため、展示されていたものも掲載雑誌や書籍での展示が多かった。
 そのおかげかどうか、写真だけでなく評論も編集もやってのける氏の写真に対する姿勢がよく分かる構成だったのだが、若い世代がその深い意味を読み解いてくれたのかどうかは未知数だが、きっと理解してくれているはずだ。

 氏やその共鳴者たちが確立した「ブレ、ボケ、アレ」の写真は、高校生だった私にとっても衝撃的なものだった。
 その思考の延長線上にある『なぜ植物図鑑か』からは写真が事象を記録するだけのものではないという “当たり前のこと” を教えてもらった。
 同時に、数年後に上梓された氏と篠山紀信の共著『対決・写真論』では、ファッション写真などと比較しながら、写真の流儀には多くの支流があり、反発しながらも共存しているという事実を確認した。

 今回の作品展は私に「若かった頃の記憶も蘇ったが、同時に、長い年月の中でどれだけ自分が変わったかも確認させる」ものになった。
 若いだけで密かに尖っていた自分と、視野は広がったが視線の鋭さを失ってしまった自分。どちらがどうだとは言わない。言えるのは時代は変わったということだけである。
≡≡[season14]25:10/Feb.11/2024 -立春-≡≡
┃ARE YOU READY?┃
-Spring beyond the cold weather-
Taishakuten, Shibamata, Katushika city.
Photographed on May.03/2022