この続きはコーヒーと一緒に

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

== あれから30年(2/3) ==

「制度や機器の充実」と「心の傷」

 阪神・淡路大震災のあと、私は被災者のから「放ったらかしにされた」という言葉を聞く機会が何度もあった。一方で、被災者救護の最前線にいた行政や自衛隊、消防の人たちが不眠不休で働いてくれている姿には何度も遭遇してきた。
 余談だが、ネトネトしているような髪の毛、真っ黒になった目の下のクマ、ギラギラとした目をした兵庫区役所の若手職員の姿は今も鮮明に覚えている。

 被災者と災害救援者との間でどうして災害の捉え方が違ってしまったのか。答えは簡単である。大規模災害に対する基本的な対応策が実情に追いつかないほど乏しいものだったからだと私は確信している。

 神戸の地震のあと、さすがにこれでは不十分ということが問題視されるようになり、大規模災害に対応した方策が各方面で見直された。
 まず国は「災害対策基本法や地域防災計画の見直し」をはじめとして「災害援護資金の貸付」や「所得税控除の特例」「ボランティア制度の確立」など多くの問題点を拾い出して法制化した。
 同時に、行政機関では「地域防災計画の見直し」や「避難所の整備」が喫緊の課題として実行されてきた。
 また、自衛隊では「自主派遣」の法制化を図ったり、「大規模災害に対応した機器整備」「自治体や警察・消防などとの情報共有」「水・食料・生活必需品の確保と輸送」などを見直してきた。
 医療関係では救急医療に特化した「DMAT」が設立され活躍するようになった。
 経済産業界では「産業復興」への道筋作りや「通信環境の整備」「インターネットの活用」などが急がれた。
 そして、報道機関では「足で稼ぎ、痛みを共有し、ドラマチックより事実を積み重ねる姿勢」へと転換しようとしている。

 つまり、神戸の地震のときはこれらすべてが欠けていたわけだ。今も、特に国の対応には、不十分かつ不適切と思われる部分が多いと感じているが、悲しいかな、これでも前進したのだ。ギャップが起こるわけである。

 しかし、神戸以降何度も大規模災害が起こっているにも関わらず、解消されていない問題がある。「極度のストレスやPTSDに対する心理ケア」や「生活弱者や超高齢者へのケア」、そして「行き場のない不満が生んだレイプや暴行、窃盗」などの事件への対応などがそれだ。
 そして、なにより欠けているのは、多くの人が「時間が経てば忘れる」という意識をもっているという点だ。被災した人々は「忘れた」わけではない。「意識して思い出さないようにしている」だけなのだ。
 直接被災していない私でさえ、ちょっとしたきっかけでフラッシュバックが起こるのだから、現場で悲惨な経験をした人や、身近な人と生き別れになった被災者にとっては一生背負っていく激烈なキズになっていることは間違いない。

--街は復興しても、心の傷は傷跡となって残る--

==[season15]Jan.18 2025 小寒 ==
〈1995.1.17〉
Port of KOBE view from Nagamine Cemetery, KOBE City.
Photographed on Apr.4 2022