∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 四十九日の法要 ≡≡

法要と国葬儀は別物

 安倍元総理が亡くなってから49日。報道ではご自宅で仏教の教義に基づいて、四十九日の法要が執り行われたようだ。

 現世に分かれを告げ、来世に向かわれるこの日、改めてご冥福をお祈りしたい。また、今日まで喪に服していたご遺族にも改めてお悔やみを申し上げたい。

 通夜にはじまる亡くなった方を偲び、悼む行為自体は人として当然のことだが、故人の遺言がない限り、そのほとんどは故人の意志ではなく、残されて者の感情で行われる。

 安倍元総理の場合は閣議決定による国葬儀である。

 これでいいのだろうか。故人を悼む儀式についてとやかく言うことには抵抗があるが、国の儀式として行われることに対しては大きな疑問を呈さないわけにはいかない。中曽根元総理と同様な内閣と自民党による合同葬は考慮されなかったのだろうか。悼む気持ちを表す方法はほかにもあったはずだ。

 そもそも国葬儀に値する人とはどんな人物だろう。戦後、国葬儀が行われたのは故吉田茂元総理ただひとりである。戦後の大混乱期の国政と外交を切り盛りして、サンフランシスコ講和条約まで漕ぎつけ、日本の主権を取り戻した宰相という極めて大きな足跡を残しただけに国葬儀が執り行われたのも納得できる。
 しかし、安倍元総理はどうだろう。閣議決定される前に、国葬儀をという感情が自然と湧き上がっていただろうか。決定後、ほとんどの国民が納得していただろうか。

 私は今回の国葬儀は自民党、内閣、一部の関係者などが一時の感情の高ぶりと民意を顧みない驕りや自惚れが生んだ儀式だと確信している。

 弔問外交など国際的な問題があるためいまさら中止し辛いという点は理解できる。しかし、民意の反映は限定的だということも事実である。
 どうしても国葬儀というのならば、最小限の規模であることと、行政組織への通達や要請を含む市民生活全体に対して服喪の強制やそれに準ずる発言などないよう強く要望したい。
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[season12/0825/25:10]
処暑』‥酷暑が峠を越す頃。二百十日。台風シーズン到来。
photograph:matsuchiyama-shoden, taito city
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