∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

≡≡ 僕にとっての平成とは ≡≡

『激動』に尽きる、かな

 明日で平成時代が終わります。生前退位という歴史的な瞬間に立ち会えるなんて、奇跡的な幸運ではないでしょうか。
 そんな時代の変わり目。僕にとって平成とはどんな時代だったか、同時に昭和の僕はどうだったのか。ひょっとすると自分史になってしまう危険性もありますが、大雑把に振り返ってみます。

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 中学時代まで何度も大病を重ね、「ご親戚に連絡を」「養護学校の手配を」「左腕は諦めて」「一生人工透析を」と母は医師から何度も聞かされたようです。つまり僕は「若くして燃え尽きずに生き残った」人間だったのです。
 ありがたいことに、そんな医師の所信をものともせず、アグレッシブに走り回り、考え、どんなことが起こっても、ポジティブに捉えることが出来るようになったのは医療と母の献身的な看護のおかげだったと確信しています。
 そんな生き様を見て、母は「この子には大きなことは期待せず、思うがままに自由に生きてもらいたい」と考えていたのではないかと想像していますが「ただのオッサン」にしか見えない存在になってしまった今の僕のことを天国にいる母がどう思っているか。合わせる顔もありません。

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 昭和が後半になった頃、僕は社会人になりました。職場の雰囲気が良かったこともあり、大きく羽ばたきましたが、実力が伴わないのに羽ばたき過ぎて周囲の皆さんにはうざったい存在と写っていたかもしれません。

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 ところが、平成になって数年後から僕の人生は激動の渦の中に飛び込むことになったのです。

 阪神淡路大震災で実家が半壊し、一人で暮らしていた母を見守るために東京と神戸を何度も往復したこともありました。隣家の火事で真冬の深夜に逃げまどったこともありました。ようやく就くことの出来た職場が会社精算してしまったこともありました。東日本大震災の時は何時間も掛けて帰宅したあと、散乱した我が家で呆然と立ち尽くしました。ここまでなら「平成は災いの時代」だったと言えるでしょう。しかし、それ以上に……。
 自らが撒いた種が原因で「ひとりで生きる」「新しい仕事を探す」「信じきっていた人間に裏切られ、どん底に引きずり降ろされる」「意に沿わない地で暮らす」など、それまでの生活とは無縁だった世界に自分を置くことになりました。
 負の連鎖が続き、人生に振り回されるなかで、これすべて運命と受け入れざるを得ない境地に陥ったのを覚えています。

 そんな波乱万丈な生き方をするようになっても、子供の頃の原体験が意識の最下層に根付いているせいか「なんとかなるさ」「次の一手を考えよう」というお気楽な性格は健在で、今では「のんきオヤジ」と呼ばれることもしばしば。
 極度の人間不信、というか人間忌避に陥りそうになっても、自分らしさの欠片を保ち続けられたのは子供の頃の原体験があったからではないでしょうか。
 いま僕は、浮き沈みの激しい生き方に抗うように「自分を失わず、今をイキイキと生きる」人間になったと思っています。いわば、ノンキなのに頑固で手に負えないオッサンになったというわけです。

 平成を振り返ったのか、単なる自分史だったのか。ともあれ、僕にとっての平成は「激動」の時代だったということになりそうです。

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