メディアに求められる
時代に合わせた倫理観
死者35名・負傷者34名。2019年7月18日に起こった京アニ放火テロは歪んだ怨念に支配されたひとりの人間が引き起こしたものでした。
最初に報道に接した時は、なぜ起こったのかも判らない状況でしたが、警察や消防から発表されるコメントをメディアが発表するたびに“狂気の放火”だったことが判ってきました。
と、ここまでなら「お約束」の振り返りですが、今回は定番的なメディアの取材姿勢に大きな波紋を投げかける事態が起こりました。
死亡者の氏名を公表してくれるなと京アニ側が警察に申し入れたところ、メディアから「公表しないとは何ごとだ」的な声が上がり、最終的に公表されたのはすべての葬儀が終わってからだったのです。
そんな今回の申し入れを知り、僕は「なぜ氏名を公表する必要があるんだろう」と取材の基本そのものが時代にそぐわなくなっているのではないかと疑問を抱くようになっています。
たしかに、僕も阪神淡路大震災や東日本大震災の時には新たな死亡者が発表されるたびに知り合いや友人のなかに被害者がいないことを願いながら、テレビの画面をじっと見つめ続けました。
しかし、今回は状況が違っていたと僕は感じています。「京アニの製作者が被害にあった」という事実だけで済んだことではなかったでしょうか。
メディアは被害者の氏名を知って何をしようとしたのでしょう。葬儀の取材をして参列者の涙混じりのコメントを聞き出す? 家族から喪失感に溢れたコメントを聞き出す? それとも、周辺取材を繰り広げて被害者を美化する?
どれもこれも、本題から外れたものばかりです。もしそうではないと言うのなら、氏名を知ることでメディアが何を得るのか、知らされる一般市民にどれだけの意味があるのか、教えてもらいたいところです。
今回の「氏名非公表問題」は、従来のように「報道をエンターテイメント化」して自らが注目を浴びようとしてきたメディアの姿勢は絶対的なものではないと問題提議しているのではないでしょうか。
─公表された氏名をもとにした興味本位の覗き見取材など必要ない。もっと大所高所にたった報道に接したい。─
事件そのものの取材が“浅く”なると感じる取材者もいることでしょう。なかには際どい取材で功を上げたいと思っている取材者もいるかもしれません。
しかし、被害者の尊厳を守りつつ、事件の根本や社会に蔓延した闇を掘り下げた周辺取材のほうが“深い”取材になるのではないでしょうか。もちろん、取材者の技量や根気やフットワークの良さなどが問われることになるでしょうが。
大規模自然災害のように真摯な態度で関係者の氏名を知りたい場合でも、報道が独り歩きしないような高い倫理観と節度が求められる時代が来たのではないでしょうか。
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