∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

〓〓 『なんでもないものの変容』 〓〓

写真家 大辻清司を再確認した一日

 齢を重ねるごとに、学生時代に出会った人や出来事が徐々に記憶の彼方に追いやられていくものである。
 だが、どうしても忘れられない人や、断片的であっても、その方と過ごした時間など、いまだ鮮明に覚えていることがある。

 私にとって写真家 大辻清司はそんな人である。

 日本のシュールレアリズム運動を確立させた瀧口修造と親交があった氏は写真の世界からシュールレアリズムとは何かを視覚化させた功労者である。
 氏の作業は、芸術家が作り込んだ造形物に「光という名の生命力」を注ぎ込み、写真として残すことから始まった。
 その後氏は「作品を作り込むこと」から「いまそこにある風景を切り取る」作業に取り組み、ついには「なんでもないものの変容」という境地に辿り着いた。

 そんな頃、私は氏と出会った。そして「写真する行為は試行錯誤の中で体得する」ことや「視線の行方を見定める」ことの大切さを教わった。
 残念ながら、社会人になってからは「撮影は他人に任せる」ことになったが、それでも、視点の定め方やその写真が担うことになる役割については自ずと浮かび上がるようになっていた。
 自画自賛すれば「日常を切り取る作業の中に潜んでいる本質の捉え方」を学んだわけである。

 今、渋谷の松濤美術館では『『前衛』写真の本質:なんでもないものの変容』と題する美術展が開催されている。瀧口修造をはじめとして、わが師である大辻清司や阿部展也、牛腸茂雄、四氏の仕事の中から抽出した作品展である。
 そのなかで、大辻清司の作品を紹介する解説には、当時教えを請うた先生もいれば、先輩もいた。また、思索の流れを遡ると、いわば親戚筋に当たるような先達も登場してきた。不不思議な感情かもしれないが、写真と解説を追いかけていくうちに、私は「忘れていた記憶が身近なものとして浮かび上がってくる」ような錯覚に陥っていた。

 撮影を他人に委ねる仕事から遠ざかり、今、私はようやく「なんでもないもの」を切り取る作業の楽しさや喜びを体感するようになっている。ひょっとすると、寡黙だが的確な大辻先生の教えを、50年近く経ってやっと、理解できるようになったのかもしれない。
 そんな環境の変化の中で確認した大辻清司の写真や思索がこれからの私にどんな化学反応を起こすか楽しみにしている。
≡≡≡≡≡[season14]12:20/Jan.15/2024 -小寒-≡≡≡≡≡
┃SPRING will be far BIHIND┃
-Nature grows up in the midwinter-
Takashimadaira, Itabashi city.
Photographed on Nov.30/2023