∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

今日だけは。母の命日

◇12年前の今日、母は亡くなった。そして今日は13回忌の命日にあたる。
◇子供の時、非常に病弱だった僕は、次から次へと大病や大けがをしていた。その都度、小学校の教師をしていた母は仕事の都合をつけながら、看病してくれた。
特に覚えているのは、僕が腎臓病で一年間ほど、食餌制限をしながら闘病していた時のこと。ようやく、タンパク質と塩分が一切摂れなかった時期を脱して、一日当たりタンパク質が30g、醤油がティースプーン3杯摂っていいと医師から許可が出た夜、母は僕のためにわざわざ炭火を起こし、「いかなご」を一匹ずつ焼いてくれた。6〜7センチほどの小魚だが、その時の僕にとっては大きさよりも「お頭付き」の魚が食べられる夢のような瞬間、極上の食事だった。ちなみに、あんなに小さな焼き魚にはあれ以来出会っていない。炭火の入った七輪にそっと魚を置き、大切に焼いたあと、大げさに喜びながら食べた事を覚えている。
僕も嬉しかったが、きっと母も嬉しかったのだと思う。あの時の食事は、母と僕の快気祝いだった。
◇神戸で地震が発生して2日目に電話が復旧し、連絡が取れるようになった時のこと。母は「地震は怖い。警報が鳴り、逃げる時間的余裕があった空襲のほうがよかった」と声を震わせながら話してくれた。その時は、なんという比べ方と思ったのだが、僕も焼け野原になった神戸の街を見た時、空襲の後というのは、こういうものだったのかと実感し、母の言葉がなによりも地震の怖さを表現したものだということがよく分かった。
その後、横浜に住む妹の家に母を避難させたようと、列車の通過待ちのため三島駅で停車していると後続列車が通り過ぎ、風圧で乗っていた列車がグランと揺れた。途端に母は「キャー、地震だ」と大声で叫び、ガタガタと震え始めた。僕は「地震じゃない。電車の風圧だ」と声を掛けながらも、どうしていいのか分からず、内心オロオロしてしまった。
ずっと風呂にも入っていない、埃まみれの二人を周囲の人たちが立ち上がって見つめていたのを思い出す。とにかく二人は脱出することに必死だった。
新横浜に着いてから、ホテルに泊まって風呂に入ってから妹の家に行きたいという母のリクエスト通り、ホテルに泊まった。母はすぐに風呂に入り、何度も身体を洗い、シャンプーをし、ゆっくりとバスタブに浸かっていた。
地震の後、すっかり弱くなってしまった母は横浜で亡くなった。それまでの数ヶ月間、僕も休みの日は病院で寝るようにしていたのだが、いつも先に寝るのは僕、先に起きるのは母という状態で、僕は看病人としては失格寸前だった。
◇今、母は先に亡くなった父と二人で神戸港を見下ろす山の上の墓で静かに眠っている。そして僕の自宅の仏壇からは父と母の写真がいつも僕を見つめている。
どうぞ、安らかに。心配ばかりかけていたあなたの息子は、一歩ずつ足元を固めながらも、イキイキと生きていきます。
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