∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

Not In Anybody's Back Yard

◇ここまで3日間書き続けてきたニンビーやインビーのように、根底に個人の利益が潜む設置反対や誘致は、どうしても不利益を被る人間や企業が出てくる。
 では、最もフェアな選択をするためにはどうするか、ということで考え出されたのが“Not In Anybody's Back Yard(誰の家の裏庭にも造らない)”という基準らしい。
 あえて「らしい」と書いたのは、どうしても僕にはこの選択肢が納得できないのだ。
◇何かの施設を作る時や職種に就く時、やるかやらないかのどちらかの選択肢しかないはず。その選択をめぐって賛成派も反対派も必死で攻防を続け、最後に結果が出るというのが定石だと僕は信じている。「誰の家の裏庭にも造らない」では、まったく問題の解決にならない。
 騒いだ結果「現状維持でいきましょう」というあいまいな方法ほど無責任な解決方法はない。
 もちろん、進歩もない。進歩なんて必要ないという人たちもいるだろうが、その人たちにはこう言いたい。人間は進歩なくして生きていけないという不運な性質を持っているのだから、と。
 進歩のないところに「その時代に快適だと感じる生活」は実現しない。だからこそ、常に進歩する方向に向かうのが人間なのだ。人間に「現状維持」はないと言ってもいい。
◇高い公共性があり、どうしても必要な施設を作る時に必ず起こるといってもいいのが賛成派と反対派の対立。こういった対立があること自体、民主的な自由主義を象徴しているのは周知の事実である。
 原発のような高い危険性をはらんだ施設を作るとなると、この対立が激化して当然だろう。もちろん、誰かが「悪魔の契約書」にサインしたために、どちらかの意見が退けられることも多々あるだろうが、真っ向から対立した場合は通常、選挙で決着をつけるというのが一般的だろう。
 選挙や政治力、あるいは国家という最終権力が決定したことに対して、自らの意見が却下された派は怨念さえ抱きかねないことも民主主義ならではであろう。
◇しかし、原発に関してはこのような方程式が通用しない時代が到来したように感じている。
 確かに通常の運転なら低コストでクリーンなエネルギーが作れると聞いてきた。しかし、それ以上に「想定外」とされてきた規模の災害が襲った時の被害の甚大さと、計り知れない影響の大きさは誰も予想していなかった。
◇こんな時、NIABYの発想だと、「どこにも造らない」ということになる。
 しかし、事はそれほど単純なことだろうか。発展した社会基盤を安定的に支えるための施設は絶対に必要なのだ。時間を掛けてでも、本当に安全でクリーンで高効率の発電施設を作らなければ。
 きっとそれは、ほかの社会的重要施設全般に言えることだと思う。
 原発のメリット・デメリットはもう充分に勉強した。特に、そのカリキュラムの中で最も役に立ったのは「肝心なことは何も知らなかった」こと。
 次世代の発電施設に取りかかる時には、しっかりと勉強させてもらおう。「想定範囲」「災害時の追加コストを含めた総コスト」は当然だが、同時に「どのフィクサーが悪魔とどんな契約した」かも先に知りたいものだ。
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