∞∞この続きはコーヒーと一緒に∞∞

その日その時、感じたことを感じたままに。まるで誰かと語り合うコーヒーブレイクのように。

想定外の事態

【高校時代】


 僕が高校3年生だった時、友人の中にひとり「オレは原子力を勉強する」といってその学部のある大学を目指した男がいた。そして彼は合格した。まだ日本には原子力イコール原爆というイメージが強かった時代である。彼は時代の最先端を切り開く道を選んだのだ。
 あれから40年近く経った。卒業して以来、写真とサッカーが好きだった彼とは音信不通になってしまったが、きっと今も原子力関係の仕事をしていると思う。


【そして今】


 そんな彼が今の日本と自分の仕事をどう考えているのか知りたくなった。
 彼はきっと、高度な学問的知識を身に付けた後、原子力の未来に夢を馳せ、それを生きがいにしながら仕事に励んできたと、僕は信じている。
 核融合や、制御に関する基礎的な研究開発が済み、兵器ではなく、平和的な利用も並行して研究されてきた40年近くの間に、特に格納に関する構造や素材選定など、安全面を強化するための技術は飛躍的に開発が進んだと、僕は勝手に解釈している。
 そして彼はそんな開発者の一員して仕事に没頭してきたはずである。きっと、いくつかの原子力発電所作りに関わったはず。彼もまた、日本に原子力の火を灯した人間のひとりである。


 ところが、2011年3月11日、彼が人生の多くの時間を費やしてきた原子力発電に歴史的な事故が起こった。


 彼の人生の中でこれほどショッキングな事はなかったはずということは簡単に想像できる。
 信じていたものが、一瞬にして消え去ったとでも言えばいいのだろうか。
 技術畑とは違った所で決定される安全基準に沿った開発をし、アメリカの設計基準で基本的な構成がされた発電所が一瞬にして「最大級の凶器」に早変わりしてしまった。
 ある意味、これもまたひとつの「想定外」だったのかもしれない。
 きっと、研究者の一団の知識による圧力に屈したこともあったろう。強大な政治権力が介入して開発の変更や製造業者の選定に圧力を掛けられたこともあったろう。それでも彼は日本の原子力発電を推進する人間としてプライドを持って仕事に取り組んできたはずだ。
 それなのに。
 きっと悩んでいるだろう。きっと悔しいだろう。自分が取り組んできた仕事が一瞬にして否定されたうえに、数えきれないほど多くの人に放射能の恐怖と不安を植え付けてしまったのだから。
 だが、僕は信じていたい。彼は日本、いや人類を裏切ってまで開発を続けてきた人間ではなかったはずと。


 政治と学問と産業が、ひとつの産業を立ち上げ保護するために仕組んだ史上最悪の隠蔽と政治的な工作。


 この壮大な工作が、どうやって仕組まれたのか、真相はきっと永遠に分からないだろう。しかし、その結果は徐々にではあるが明白になっていくはずだ。同時に、輝かしい未来は教えられても、その重大な危険性については教えてこなかった「教育」にも変化が起こるだろう。


原爆記念日


 あと二日で66回目の原爆記念日がやってくる。日本は原子爆弾の威力を体感した唯一の国である。それなのに、その影響についての研究は学問の世界に留まり、日本人の一般知識として教育されてこなかった。
 つまり、悲惨さは伝えられてきたが、長い年月に渡り影響を及ぼす放射能の影響や陰湿な地域差別、放射能を浴びた時の対処法など、日本人だからこそ出来る「データを基礎にした知識」を直視することを避けてきたわけだ。
 言い換えると「原爆」と「原子力発電」はまったく別物で、平和的な利用方法なのだ、としか教育されてこなかったのだ。


 今年の原爆記念日は、これまでとは違うものになると確信している。
 原爆と言う凶器と原子力発電というインフラに共通する「放射能」の正体はおなじもので、同じ危険性をはらんでいるいうことを身を持って知った我々だからこそ、決して過ちを繰り返さないと誓わなければいけないのだ。